岩屋岩蔭遺跡の謎!?
悪源太義平の狒々退治
双子 あい
伝説の英雄は生きていた!?
〜悪源太義平、飛騨金山で狒々退治の衝撃秘話〜
平安末期の武将、源義平――その名は、父・源義朝と共に平治の乱(1159年)で勇名を馳せた剛の者として歴史に刻まれている。
しかし、敗戦後、人知れず飛騨の山里に身を潜め、悪鬼のごとき狒々(ひひ)を退治し、村人を救ったという驚くべき逸話が、
岐阜県下呂市金山町にひっそりと語り継がれているという。
平安末期の武将、源義平が平治の乱(1159年)で敗走後、再び兵をあげるために潜伏した際、
飛騨の山里で悪鬼のような狒々(ひひ)を退治し、村人を救ったという勇ましい逸話が、岐阜県下呂市金山町に伝わっている。
かつて祖師野村と呼ばれたこの地には、古くから村の安寧のため、毎年行われる村の祭りで若い女性を神への生贄として捧げるという
悲しい習わしがあった。そこに立ち寄った源義平は、困り果てた村人たちから狒々退治の相談を受け、立ち上がったという。
血塗られた祭りの夜〜悪源太の女装作戦〜妖しき足音に太刀を抜く
知恵に長けた義平は、女の姿に身をやつして生贄の台で待ち伏せする作戦に出た。恐ろしい夜、待ち受ける中、
はっきりしない足音が徐々に近づいてきた。機を見計らい、義平が腰に帯びていた太刀を閃光のごとく抜き放つと、
年老いた白い大きな体の狒々が悲鳴を上げ、深い山の闇へと逃げていった。
義平は、村の若者たちを率い、流れ出た血の跡を追跡した。ついに、岩でできた洞窟に辿り着き、
そこで悪意のある狒々を完全に討ち取ったのである。恐ろしい災いから逃れた村人たちは、後に感謝の気持ちを込めて、
遠く離れた鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請(神様の魂を迎え入れ)し、新たに祖師野八幡宮を建てたと伝えられている。
狒々退治の際に源義平が使っていた太刀は、その後、祖師野八幡宮に奉納された。
その刀剣は、村の名にちなんで祖師野丸と名付けられ、祖師野八幡宮の宝物として神聖に祀られている。
また、狒々が退治された神聖な岩でできた洞窟の場所は、「岩屋岩蔭遺跡」として、
昭和48年に岐阜県の指定史跡となり、古い時代の人々の暮らしと英雄的な伝説を今に伝える貴重な場所となっている。
〜歴史の深層〜平治の乱と悪源太義平伝説〜史料に見る英雄像
平安時代末期の保元元年(1156年)に朝廷内の皇位継承問題に端を発した内乱に続き、平治元年(1159年)に勃発した平治の乱は、
源氏と平家が武力衝突した戦乱である。
この戦いにおいて平家が勝利を収め、平清盛が朝廷内で確固たる地位を築き、その後の政権を主導するに至ったことは周知の通りだ。
この動乱を描いた代表的な古典籍としては、『平治物語』や『源平盛衰記』が挙げられる。
『平治物語』は、源義朝とその嫡男である悪源太義平の勇猛果敢な活躍を中心に活写している。
一方、『源平盛衰記』には、義平が人里を脅かす狒々(ひひ)を退治する異聞が収録されている点が特筆される。
興味深いのは、これら二つの史料がいずれも源氏が政権を掌握した鎌倉時代に成立しているという点だ。
そのため、『源平盛衰記』における悪源太義平の狒々退治譚は、源氏の立場を色濃く反映し、概ね前述のように語られている。
〜平治の乱、源氏棟梁・義朝の悲劇的な最期〜
平安時代の末期、源氏と平家が覇権を争った平治の乱(1159年)は、武士の台頭を象徴する動乱として知られる。
その激戦の末、源氏の棟梁・源義朝は、敗走の末に非業の死を遂げるという悲劇的な結末を迎えた。
同年12月9日、三条殿の襲撃を端緒として勃発した平治の乱は、戦局が終盤を迎える中で大きな転換点を迎える。
平清盛は、戦火が都の内裏に及ぶのを避けるため、平家の本拠地である六波羅へと敵勢を誘い込む作戦を実行。
これにより、戦場は六波羅へと移り、いわゆる「六波羅合戦」が展開された。
清盛率いる平家軍の巧みな戦略が功を奏し、12月26日、源義朝率いる源氏軍はついに敗退。
義朝は嫡男の義平らを伴い、東国を目指して敗走を開始する。
しかし、その逃避行は困難を極めた。近江と美濃の国境付近で落ち武者狩りに遭遇し、兵を失いながらも、
一行は美濃国青墓(現在の岐阜県大垣市)の豪族・大炊の館へと辿り着く。
都に戻ることは不可能と判断した義朝らは、残された僅かな兵を二手に分け、それぞれ東国を目指す決断を下す。
義朝は鎌田正清、平賀義宣、金王丸、玄光法師らと共に小舟に乗り、杭瀬川から伊勢湾へと進路を取った。
一方、義平は陸路の東山道を進むことになった。
海路を進んだ義朝は、尾張国野間(現在の愛知県美浜町)に辿り着き、義宣の舅にあたる長田忠致の館に身を寄せる。
しかし、安堵も束の間、翌平治2年(1160年)1月3日、義朝は入浴中に忠致とその一党によって謀殺され、壮絶な最期を迎える。
享年38歳。長田忠致の娘婿である正清もこの時、共に討ち死にしている。
長田忠致は、桓武平氏の流れを汲み、平治の乱以前は源氏に仕えていたという。
義朝の首を平清盛のもとに届けた忠致は、その功績により壱岐守に任じられた。
しかし、主君を裏切る行為は世間から強く非難され、正清の妻であり忠致の娘は、夫の死を深く悲しみ、自害したと伝えられている。
平治の乱における源義朝の悲劇的な最期は、その後の源氏の再興、そして平家の滅亡へと繋がる歴史の大きな転換点となったと言えるだろう。
〜悲劇の英雄〜父の死、そして京への潜伏
一方、義平は間もなく、父・義朝が尾張国において長田忠致の凶刃に倒れたという悲しい知らせを知ることになる。
父の突然の死に強い衝撃を受けた義平は、復讐を決意し、十三歳の頼朝らと分かれ、単身で危険な道を引き返し、京へと舞い戻る。
その後、義平が再びその姿を現すのは、身を隠し京の街中に潜伏していた時期であった。
単独での逃避行は容易ではなかった。義平は裏道を辿り、美濃から近江へと辛うじて逃れた。近江の地で、父・義朝の無念の死と、その首が京の六条河原に晒されたという残酷な事実を知る。
軍記物語『平治物語』によれば、父の屈辱的な死を知った義平は、仇敵である平清盛を討つという燃えるような復讐心に駆られ、
密かに都に潜伏し、機会を窺っていたという。
義平は、清盛の牙城である六波羅に近い八坂神社のあたりで、清盛暗殺の機会を虎視眈々と待っていた。
その潜伏中に、義平はかつて父・義朝の家臣であったという丹波国の志内六郎景澄と偶然の再会を果たす。
景澄は、敵を欺き、平家の本拠地に深く潜入していたという。
義平は景澄を頼り、自らを彼の家来のように低い身分に見せかけながら、六波羅に潜り込み、敵の内部の様子を探っていた。
〜壮絶な最期〜悪源太、六条河原に散る
しかし、運命の歯車は予期せずにも回り始める。1月18日の夜、義平と景澄が宿で密かに話していたところ
、景澄を知る清盛の部下が不審な気配を察知し、清盛一党が素早く行動を開始する。
清盛一党は、清盛が1月25日に石山寺へ参詣するという偽の情報を念入りに流布した。
そして25日、義平がその偽情報に誘われ、石山寺にひそかに潜伏していたところを発見され、
ついに捕縛されてしまう。義平は、清盛の権力の象徴である六波羅へと無情にも連行された。
父の仇を討つという熱い願いを胸に孤独な戦いを挑んだ義平のこの勇敢な試みは、こうして、不本意な結末を迎えたのである。
〜清盛との対峙、そして六条河原の露と消える〜
平清盛の本拠地・六波羅へと連行された源義平は、清盛自身の厳しい尋問を受けることとなった。
捕縛された状況を問われた義平は、臆することなく、自らが源義朝の長男・義平であることを毅然とした態度で認めたという。
その際、義平は清盛に対し、
「まったく、運が悪かったとしか言いようがない…。まさか、こんな場所で捕まってしまうとはな。
このような身の上が、生きていても何になろう。潔く首を斬ってくれ。」と、自嘲気味ながらも覚悟を決めた言葉を放ったとされる。
清盛は、その堂々とした態度に一瞬、感嘆の念を抱いたのか、
「ほう、なかなか開き直るではないか。さすがは源氏の嫡男よ。」
と、その胆力を認めるような言葉を投げかけた。
義平は、その言葉を真っ向から受け止め、
「当たり前だ。俺は源義朝の長男、源義平だ!」と、自身の出自と誇りを高らかに宣言したという。
そしてその日のうちに、義平は無情にも刑場である六条河原へと引き立てられた。
太刀取りを務めたのは、難波経房であった。
死を目前にしても、義平の気概は揺るがなかった。
経房に対し、「貴様のような者が、この俺の首を斬るとは、名誉なことだぞ。見事な太刀捌きを見せろ。
もし下手くそだったら、喰らいついてやる!」と、最後の最後まで敵意を剥き出しにしたという。
経房が「首を斬られた者が、どうして喰らいつくことができるのか」と訝しむと、義平は「すぐに喰らいつくのではない。
雷となって蘇り、貴様を蹴り殺してやるのだ。さあ、早く斬れ!」と、激しい怒りを込めた言葉を吐き捨てた。
経房は、その言葉に薄く笑ったかのように、「ふっ、生意気な。しかし、さすがは源氏の勇気、覚悟は見事だな。
一太刀で苦しみを終わらせてやるつもりだ。覚悟しておけ。」と応じた。
義平は短く、「覚悟はできている。さっさと斬れ!」と繰り返した。
平治2年1月25日(西暦1160年3月4日)、源義平はわずか二十歳という若さで、その短いながらも激しい生涯を終えた。
その壮絶な最期は、敵でさえも深い印象を受けたと伝えられている。
歴史ミステリー〜英雄か、悲劇の武将か? 義平伝説の謎〜
岐阜県下呂市に残る狒々退治の伝説。史実では京で処刑されたはずの義平が、なぜこの地に現れ、妖怪退治を行ったというのだろうか?
地域に残る英雄譚と史実のギャップ〜伝説と記録、二つの顔
岐阜県下呂市に伝わる「岩屋岩陰遺跡の狒々退治伝説」。この物語の主人公は、平安時代末期の武将・源義平だ。
しかし、勇猛果敢な「悪源太」として記録に残る義平の人物像と、伝説に描かれる妖怪退治の英雄像には、大きな隔たりがある。
伝説によれば、平治の乱(1159年)で敗れた義平は、この地に落ち延び、里人を苦しめる狒々という妖怪を退治したという。
村人たちは義平を英雄として称え、その武勇を讃えたと伝えられる。
一方、歴史書に記された義平は、父・源義朝と共に戦い、その武勇から「悪源太」の異名を持つ荒々しい武将だ。
平治の乱後、義平は捕らえられ、無情にも京の六条河原で処刑されたことが記録されている。
浮かび上がる矛盾点
二つの義平像には、大きく二つの矛盾点がある。
活動時期の矛盾
- 伝説: 1159年以降、この地に落ち延びて妖怪退治
- 記録: 1160年、京で処刑
人物像の矛盾
- 伝説: 里人を救う英雄
- 記録: 勇猛で粗暴な武将
なぜ、このような矛盾が生じたのだろうか。
専門家は、この伝説が、史実の義平を基にしながらも、地域の伝承や、人々の願望が加わって形成された物語であると分析する。
「人々は、時の権力者によって無念の死を遂げた義平に、英雄としての役割を与えたかったのではないか。
地域の安寧を願う気持ちが、妖怪退治の物語として語り継がれたのだろう」と語る。
伝説と記録の矛盾は、歴史の奥深さと、人々の想いが交錯する面白さを教えてくれる。
〜謎の漢詩と揚羽蝶〜源平のメッセージが隠されていた!?
地域に残る古文書から、古代の謎を解き明かす鍵となるかもしれない
五十六文字の漢詩が書かれた紙片に揚羽蝶が挟まれているのが見つかっていた。
専門家による漢詩の解読が進み、遺跡に秘められたメッセージが明らかになりつつある。
発見された漢詩は、次のように読み下せる。
専門家によると、この漢詩には、遺跡の成り立ちや、古代人の宇宙観、精神世界が込められていると考えられるという。
- 妙見尊影護家郷
- 妙見(ミョウケン)の尊影(ソンエイ)、家郷(カキョウ)を護(マモ)る。
- 遺跡の守護: 遺跡は、かつて妙見信仰の聖地であり、その力がこの地を守っている。
- 幽石沈黙裏北斗
- 幽(シズ)かなる石は、沈黙(チンモク)の裏(ウチ)に北斗(ホクト)を望(ノゾ)む。
- 天体観測: 遺跡の石の配置は、北斗七星を表し、古代人が天体観測を行っていたことを示唆する。
- 尖石無語記古暦
- 尖(トガ)れる石は、無語(ムゴ)にして古暦(コゴヨミ)を記(シル)す。
- 暦の機能:遺跡の構造は、特定の日に太陽光が差し込むように設計されており、古代人が暦として利用していたことを物語る。
- 笹竜狒狒潜磐蔭
- 笹竜(ササリュウ)狒々(ヒヒ)は、磐(イワ)の蔭(カゲ)に潜(ヒソ)む。
- 伝承の暗示: 源義平の伝説と関連する「笹竜」「狒々」という言葉が登場し、遺跡に伝わる伝承が、この漢詩に暗示されている。
- 朝日斜射直三角
- 朝日(チョウジツ)斜(ナナ)めに射(サ)し込(コ)み、直(タダ)ちに三角(サンカク)を照(テ)らす
- 天体観測朝の太陽観測をいう。
- 夕陽直射輝平面
- 夕陽(セキヨウ)直(タダ)ちに射(サ)し込(コ)み、平面(ヒラオモテ)輝(カガヤ)く。
- 天体観測午後の太陽観測をいう。
- 岩扉開啓埋黄金
- 岩扉(ガンピ)開(ヒラ)き啓(ヒラ)けば、黄金(コガネ)埋(ウズ)まる。
- 古代の叡智:「黄金」は、単なる財宝ではなく、古代の叡智や精神的な遺産を象徴している可能性がある。
- 不滅霊魂孕聖石
- 不滅の霊魂(レイコン)、聖石(セイセキ)を孕(ハラ)む。
- 聖なる場所遺跡は、古代の人々の霊魂が宿る聖なる場所であり、特別な力が宿ると考えられていた。
源氏の家紋、平家の家紋
〜「笹竜胆」は源氏、「揚羽蝶」は平家〜
発見された五十六文字の漢詩と揚羽蝶の謎。
天文考古学研究家の樋口元康氏によれば、
漢詩四行目には、「笹竜狒狒潜磐蔭」とある。「笹竜」とは、源氏の家紋である笹竜胆(ささりんどう)を指すという。
この漢詩に詠まれた「笹竜」は源氏の家紋である笹竜胆を指し、「揚羽蝶」は平家の家紋と解釈できるという、
源氏と平家の対比を表しているという驚きの解釈を提示する。
一方、「揚羽蝶」は平家の家紋である。樋口氏は、この二つが対比として詠まれていると指摘する。
〜義平を隠すという視点〜
伝説では、源義平がこの地に逃れ、狒々を退治したとされる。
しかし、史実の義平は平氏によって処刑されており、この地で狒々と対峙したという記録はない。ここに、伝説と史実の矛盾が生じる。
樋口氏は、この矛盾を「義平を平氏から隠す」という視点から解釈する。つまり、漢詩に詠まれた狒々は、義平自身を隠喩的に表しており、
源氏の象徴である「笹竜胆」を、平家の象徴である「揚羽蝶」から隠すために、岩陰に潜ませた、と解釈できるのだ。
〜岩の扉が開く条件〜
さらに、樋口氏は、漢詩七行目の「岩扉開啓埋黄金」という一節にも注目する。
「岩の扉が開く」とは、遺跡に隠された秘密や、古代の叡智が明らかになることを意味すると考えられるが、
その条件として、源氏と平家の対比が重要になるという。
つまり、「笹竜」と「揚羽蝶」という、対立する二つの要素が揃った時、初めて「岩の扉」が開き、遺跡の真の姿が現れるというのだ。
樋口氏の解釈に従えば、この漢詩は、単に遺跡の状況を説明したものではなく、源氏と平家の歴史、
そして、その狭間で生きた人々の想いを込めた、壮大なメッセージとなる。
遺跡に隠された「黄金」が、源平の和解や、争いのない平和な世界の実現を象徴していると考えることもできるだろう。
〜幸運パワーのお土産〜
樋口氏によると、岩屋岩陰遺跡の近くには、そこに立つと幸運の巨石パワーが集中するポイントがあるという。
それが漢詩の七行目と八行目に隠された真のメッセージではないかという。
信じるか信じないかはご自分で確かめて戴きたい。
幸運のパワースポットの場所はツアーに参加されたお客様には案内されるとのことです。
〜まとめ〜
岩屋岩陰遺跡の漢詩に対する樋口氏の解釈は、新たな光を当て、伝説と史実の矛盾を解き明かす可能性を示唆している。
源平の対比という視点から漢詩を読み解くことで、遺跡に秘められた古代人のメッセージが、より深く理解できるのではないだろうか。
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