(1)
岐阜県下呂市金山町、馬瀬川の清流が流れる山深い谷に岩屋岩蔭遺跡と金山巨石群は佇んでいます。
巨石が織りなす神秘的な景観は、太古の息吹を今に伝えます。
この岩屋岩蔭の祭祀は、
太古の時代の人々が抱いていた自然に対する畏怖と崇拝、すなわち
アニミズム
を起源とする古代祭祀の場であったと考えられます。
(2)
古神道では
神が宿るとされる山や
森、
磐座・
神籬などが神霊の
依り代としています。
特に岩屋岩蔭の巨石群のなかで高く尖っているE石の先端に、神が最初に降臨する依り代と信じられていたのかも知れません。
祭祀には、祈りや供物などを通して神々との繋がりを求め、意思疎通を図ろうとする行為があります。
同時に、共同体の維持や文化の継承、自然との関係性の構築、個人の願いの表明など、多様な意味合いを含んでいると言えます。
(3) 平安時代になると、 北極星や北斗七星を神格化した 妙見信仰が伝来し、 この地の古来の信仰のアニミズムに基づく古来の神々と融合していきました。 妙見信仰は、妙見菩薩 を神格化したものであり、岩屋岩蔭遺跡から江戸時代の古銭が出土していることからも、 長きにわたり信仰の対象であったことが伺えます。
(4)
平安時代末期1159年の平治の乱で
平清盛に破れた
源義朝と、子息の
悪源太義平(源義平)は、
東国に逃れる途中で
義朝謀殺
の報を知り、清盛を仇討ちするため京に引き返しました。偵察潜伏中に石山寺で捕縛され
六条河原で処刑されています。
一方、この地区の祖師野に伝わる伝承では、義平が門原に逗留した際、
狒々が村人を苦しめることを知り、
人身御供の娘の身代わりになり、狒々を追いつめてこの岩蔭で退治したという伝説が残っています。
その伝説により岩屋岩蔭遺跡は、昭和48年(1973年)に
岐阜県から史跡指定を受けています。
なお、狒々退治伝説の狒々は山賊ではないかとの説もあり、真偽は定かではありません。
岩屋岩蔭遺跡の謎!? 悪源太義平の狒々退治 - 星たび
(6)
岩屋ダムは、
木曽川水系の
馬瀬川
に建設された堤高127.5mのロックフィルダム
で、洪水調節、利水、発電を目的とする多目的ダムです。
地山の斜面から濃飛流紋岩を切り崩し、それを堤体に積み上げています。
1966年(昭和41年)に岩屋ダム建設計画が持ち上がります。当初は水没も懸念されましたが、
最終的には現在地に建設され、1976年に完成しました。
(7) 岩屋ダムの建設により東地区(旧岩屋村 など)の集落157世帯が水没して住民は故郷を離れたことにより、 地区の消滅により岩屋神社の祭神は下流の金山町祖師野にある 祖師野八幡宮 に合祀され、岩屋神社は祖師野八幡宮の飛地境内になっています。
(8)
祖師野八幡宮
岐阜県下呂市金山町祖師野
に鎮座する祖師野八幡宮は、
岩屋岩蔭遺跡から約5キロメートル下流に位置し、
古くからこの地の守り神として崇敬を集めてきました。境内は、静かで神聖な雰囲気に包まれています。
境内には、古寂な佇まいの社殿、樹齢を重ねた御神木や灯籠などが点在し、古社の趣を今に伝えています。
(9)
岩屋岩蔭遺跡のある下呂市金山町周辺は、古代から中世にかけて美濃国
と飛騨国
の境界部に位置していたため、両方の国の歴史がこの地域の歴史を理解する上で重要になります。
美濃国は、古代にはヤマト王権
の支配下に組み込まれ、畿内と東国を結ぶ交通の要衝として重要な役割を果たしました。
飛騨国は、山岳地帯であり、美濃国に比べると中央の支配が及びにくい地域でした。独自の文化や信仰が育まれ、
斐陀国造という地方官がこの地域を治めていました。
岩屋岩蔭遺跡のある地域が美濃と飛騨の境界部に位置していたことは、
異なる文化を持つ人々や物資の交流地点となりやすく、両国の文化的な要素が混ざり合う可能性がありました。
古代から中世にかけて、美濃と飛騨を結ぶ街道は、人や物資の交流、文化の伝播において重要な役割を果たしました。
律令制度下で整備された幹線道路である東山道
から分岐する東山道飛騨支路
は、美濃国府から加茂駅(加茂郡富加町付近)、武儀駅(金山町菅田付近)
から下留駅、
上留駅(下呂市)、石浦駅(飛騨一之宮)、飛騨国府(高山市)に至っていました。
途中、武儀駅から下留駅へは、祖師野から
笹百合峠を通っていたのかも知れません。
岩屋岩蔭は、飛騨と美濃を結ぶ笹百合峠の西側で、交通の要衝であったと考えられます。
美濃と飛騨の国境としての一方では、時に政治的、軍事的な緊張を生み出す場所でもあります。
この地域は、美濃と飛騨の勢力の間で緩衝地帯としての役割を果たした可能性があり、争奪の対象となることもあったかもしれません。
源義平
がこの岩屋で狒々を退治したという伝承が残っており、古くから人々の往来があったことを示唆しているとも考えられます。
地名の変遷
・江戸時代〜:美濃国郡上藩領
→旗本(乙原)遠藤領。
明治初期:郡上郡岩屋村
→岩瀬村
→東村→
・1955年:益田郡金山町→
・2004年:下呂市金山町
・馬瀬川支流妙見谷の左岸南斜面(写真左)に岩屋岩蔭遺跡と金山巨石群があります。
・写真左端に岩屋神社の参道、道路沿いに金山巨石群のJ石と、太陽カレンダーシミュレータ再現館があります。
(10)
古代の太陽観測施設であった可能性を秘めているこの地を、
長年の調査を続ける金山巨石群リサーチセンター
の小林由來氏と徳田紫穂氏の観測に基づき、
筆者の現地取材と天文学的な視点からこの古代遺跡に秘められた驚くべき縄文人の知恵と宇宙観が明らかになりつつあります。
この遺跡・巨石群の最大の特徴は、巨石の配置や隙間を通して、特定の日に太陽光が特定の場所を照らす現象が観測されることです。
岩屋岩蔭遺跡では雨水、春分、秋分、霜降といった季節の節目に加え、閏年の存在まで示唆する光の動きが確認されています。
線刻石のある巨石群では夏至と冬至の夕日が、東の山巨石群では冬至の朝日が、巨石の配置や隙間を通して捉えられます。
これらの事実は、古代の人々が太陽の動きを綿密に観測し、それを暦として生活に取り入れていた可能性を強く示唆されます。
遺跡からは縄文時代の土器片が出土しており、
およそ8000年前からこの地が利用されていたと考えられることからも、その歴史の深さに驚かされます。
(11)
岩屋岩蔭遺跡の内部
平成13年度(2001年度)に金山町教育委員会(当時)によって行われた実施された発掘調査では、
遺跡内部においてトレンチ掘削が行われ、地層の堆積状況や遺物の包含層などが確認されました。
この調査で石器や土器片などが出土しています。
(12)
2001年度の発掘調査による成果は、2002年3月(平成14年3月)に報告書としてまとめられています。
この発掘調査では、岩陰から多数の石器や土器片が出土し、
このうち押型文土器片は
土器編年から約8000年前、
縄文時代の遺物と推定されました。
したがって岩屋岩蔭は8000年前(紀元前6000年頃)には既に利用されていたと考えられます。
発掘調査の報告書には、 「岩屋岩蔭は流紋岩質溶結凝灰岩と
濃飛流紋岩の巨石の上に、北から濃飛流紋岩
の巨石が庇状に覆い重なって形成されている。
これら岩陰を構成する巨石は石の種類も堆積方向も谷底付近のものとは異なっており、山からの崩落によるものと考えられる。」 としています。
さらに 岩陰内には外からの木の根が入り込んでいることから、
「岩陰を構成する巨石は現地表面からそれほど深くないところに乗っている状態であると考えることができよう。」としています。
(参照:岩屋岩蔭遺跡発掘調査報告書より。)
写真:濃飛流紋岩
(日本最古の石博物館所蔵のもの)
(13)
岩屋岩蔭を構成する濃飛流紋岩は、岐阜県北部の飛騨北部から東濃にかけて広い範囲に分布しています。
白亜紀後期
(約9000万年前〜7000万年前)に、大規模な火砕流噴火
によって形成されたもので、
石英や長石などの斑晶を多く含み、非常に硬く風化に強い石材です。
図は、「金山巨石群と日本の考古天文学」2007.6 金山巨石群調査資料室 発行のパンフレットより
(14)
金山巨石群について森永速男(兵庫県立大学名誉教授)は
古地磁気学的な調査を行っている。
調査の結果、巨石群を構成するほとんどすべての巨石の残留磁化はバラバラな方向を向いており、巨石が移動・回転をしたことを示していました。
森永教授は、これらの巨石が移動・回転したことを示唆するデータが得られたことを報告しています。
2025年J-AASJ学会誌6号では、
「自然の作用によって移動・運搬された巨石の配置を観察しているうち、天体の運行を利用して季節を知る道具として利用できることに古代人は気付いた。
と考えることも可能」としています。
巨石の移動・回転が自然の力によるものか、人為的な力によるものか、その原因の可能性について、
自然の力によるなら、地震や地滑り・崩落などの自然現象によって斜面を滑り落ちるといったことも考えられます。
人為的な力によるなら、縄文時代に太陽の運行を観測する目的で、意図的に移動・回転・加工をした可能も否定できませんし、
自然の力と人為的な力が複合的に作用している可能性も考慮に入れる必要があるでしょう。
これを断定するには、いまのところは、まだ情報が不足していると考えます。
(15) 空撮写真(GoogleMap) で見ると、中央上に岩屋岩蔭遺跡巨石群があり、その東(右側)に線刻石のある巨石群がある。 金山巨石群はこれら巨石群と東に見える山の頂上近くの巨石群(東の山巨石群)を含んでいます。
(16) 岩屋岩蔭遺跡から東に40mほど離れた、森の中にあります。 この巨石群の中に、表面に2本の深い線と、その上に3つの楕円形のくぼみが刻まれた「線刻石」があります。
(17)
高さ7〜9mの巨石が集まり、その1つが小林さんが発見した線刻石です。
線刻石をA石(右)。その隣の石を仮にA'石、手前のD石、左のB'石とその上B石、中上にC石。
それらの中央に祭壇石で構成する巨石群を「線刻石のある巨石群」と名付けている。
写真はD石の上から俯瞰撮影し、方位は上が南南東です。
(18) 線刻石の巨石群の中の1つの巨石が割れて、あるいは人為的に割って、B石とB'石になったV型隙間に、二十四節気の 霜降から冬至の日を挟んで雨水まで約120日間の、 山に沈む夕日が射し込み観測ができます。
(20) B石とC石の間を通過した朝の光は、夏至を挟む120日間、A石の下の空間に射し込みます。(左) 逆にA石の下から朝日を眺めます。(右)
(21)
太陽観測を発見の経緯:
画家でもある小林氏が絵画の題材を探している際にこの線刻に気付いたそうです。
当時は右側の石の下半分は土に埋もれ、石の間に三角の空間がありました。
小林さんが、柔らかい土を取り除くと奥に広い空間が現れて、石の隙間から夏の太陽光線が射し込み、
地面に楕円形のスポット光が当たっていのです。
この太陽光線と光の形から線刻の意味を解き明かす鍵となったのです。
線刻石の特徴:
線刻石には、斜めに刻まれた2本の線刻と、
その上にある大・中・小の3つの楕円形のくぼみがあります。
2本の線刻の下には、線刻と平行に長さ5m,深さ50cm,V型断面の深い溝があります。
夏至の午後3時頃にこの溝に太陽光が入ります。
線刻について反対意見:
「市民団体が「線刻」と主張する痕跡も、マグマが固結する際に形成された「柱状節理」によるものとみるべきである
〜」との意見もありますが、小林氏らはこれを否定しています。
この線刻が自然の作用によって生成されたものか、あるいは人工的に刻まれたものかを現地で確認して戴きたく思います。
参照:岩屋岩蔭遺跡 - Wikipedia
(22) 線刻石の下の空間から上を見上げると、巨石の隙間から太陽光が射し込み、スポット光線になりました。
(23) 夏至を挟む前後の期間、線刻石の下の空間の地面に当たる光の形が、線刻の上に刻まれた楕円と同じ形であることがわかりました。 最初の小さな光が5月30日に当たり始め、夏至の6月21日で大きい楕円と同じ形、小さくなって7月14日まで地面を照らします。
(24) 線刻石の下の空間で太陽観測:
(25) 夏至の太陽観測:
(26)
日食の観測:
2012年5月21日に金環日食が観測されました。
金山巨石群はこの金環日食の金環帯の端に位置していて、観測に適した場所に位置していました。これは特筆すべき点です。
太陽カレンダーシミュレータ再現館の壁に三日月形の木漏れ日が映っています。
最大食の僅かな瞬間に月の地形の凹凸の隙間を抜けた光が点線となって見えるのが
ベイリー・ビーズといいます。
線刻石の下の空間への入口上部に現れる、光の点線を想起します。
(27) 月の観測の可能性
(28)
月の最北と最南の観測はできたか
月は公転に伴い、天球上で最も北に来る点(最北点)と、最も南に来る点(最南点)を毎月(約27.2日周期で)通過します。その最北点・最南点の赤緯は毎回一定ではありません。
この変動は、地球の黄道傾斜角
が約23.4度傾いていることと、月の軌道(白道)が黄道に対して約5.1度傾いていることによります。この2つの傾きが合わさることで、
月の最北・最南の位置が周期的に変動する原因です。
黄道と白道が交わる月の交点は、月の公転方向とは逆向き(西向き)にに約18.6年(正確には約18.599年)で一周します。これを月の交点の逆行運動と呼びます。
月の軌道の昇交点が春分点と一致する頃、白道の傾きと黄道の傾きが足し合わさって、月の最北・最南の赤緯は約 ±28.5度になります。
冬至の頃の満月は、太陽とは逆に最も高い赤緯に達します(Major Standstill)。
夏至の頃の満月は、最も低い赤緯に達します(Minor Standstill)。
これに月の交点の逆行運動が重なって、
約18.6年に一度の特別な時期にだけ、冬の満月は「極端に高く」、夏の満月は「極端に低く」なるのです。
ストーンヘンジでは「ステーション・ストーン」の配置で、18.6年周期の
「ルナ・スタンドスティル(月の大停滞)」
を観測できたといいます。
金山巨石群でも、まだ見つかっていませんが、18.6年周期の満月の赤緯は観測できたはずです。
(29) 岩屋岩蔭遺跡巨石群の特徴
岩屋神社の社殿背後の地面にF石とE石の隙間から届く太陽光線が射し込みます。
(35)
発見された「東の山巨石群」では、
冬至の日を挟む
霜降
から雨水まで120日間の朝の太陽観測ができます。
東の山巨石群は、人為的な加工が施されているような印象を受けるものの、その詳細な目的はまだ解明されていません。
なお、東の山は、他の2つの巨石群がある場所から東の方向へ、登山道のない山の斜面を約45分から1時間ほど登った場所に位置しています。 私有地のため自由な立ち入りはできないので、 東の山巨石群へは、金山巨石群リサーチセンターが主催するガイドツアーの10月と12月限定で登山観測がオプションとして参加する必要があります。 急な斜面を登るため、健脚者のみが対象となることがあります。
(36) 金山巨石群の岩屋岩蔭遺跡巨石群と線刻石のある巨石群の配置図です。 (星たび)
(37)
金山町教育委員会 岩屋岩蔭遺跡周辺調査委員会(当時)が設置した「岩屋岩蔭遺跡謎の巨石群(体験ポイント)案内図」です。
(38)
アナレンマ(analemma)
とは、1年を通して同じ場所から同じ時刻に太陽を観察したとき、太陽が空に描く8の字型の軌跡のこと、
図は正午(35゚E 135゚E 12:00JST)のアナレンマ。冬至が下端、夏至が上端。
二十四節気の位置をプロットしています。
・参照:巨石遺跡にアナレンマを見た-星たび
・ アナレンマが8の字のような形になるのは、地球の公転運動と自転軸の傾きが組み合わさって、見かけの太陽の動きが変化する結果です。 地球は太陽の周りを楕円軌道で公転しており、その速度は一定ではありません。地球の動きは、 惑星の運動法則(ケプラーの第2法則:面積速度一定の法則) により、楕円軌道で太陽に近い近日点に近づくと公転速度が速くなり、太陽から違い遠日点に近づくと遅くなります。 その近日点・遠日点は惑星の重力による摂動のため長い時間をかけて楕円軌道の長軸方向を変えながら少しずつ緩やかに移動していきます。 これによってアナレンマの8の字の交点の位置は移行し、やがて8の字の形が逆転します。 何千年も過去に遡れば8の字の形は今とは違っていた のです。
・
アナレンマの8の字に幅があるのは、均時差があるためです。
均時差について説明します。
地球公転軌道が完全な円軌道とすれば、架空の太陽は軌道を一定速度で動きます。 しかし、実際の太陽の軌道での動きは毎日少しずつ変化しています。
架空の太陽の位置によって、決まる時間を平均太陽時といい、実際の太陽が南中するたびに変化する時間を視太陽時といいます。
この速度の差が、均時差(平均太陽時と視太陽時の時間差)となります。この均時差がアナレンマの東西方向の変化を引き起こします。
なお、平均太陽時も公転軌道の変化で時間が変化するので
、現在ではセシウム原子の共鳴周波数に基づく極めて正確な時計を採用しています
。
(39) 観測地から見た天球に太陽の運動を描くと、 日周運動は毎日少しずつ太陽の南中高度が変化し、 同じ時刻の太陽は速度差による均時差のため8の字を描きます。
・ アナレンマの8の字が縦(南北)の変化は、 地球の自転軸(地軸)は、公転面に対して約23.4度傾いたまま地球は公転軌道を周回します。こ の傾きを黄道傾斜角といいます。 地上から太陽を見ると太陽が傾斜した黄道を移動しているように見えて、 太陽高度に変化が生じ1年周期で季節の変化が生じます。 この太陽の動きが、アナレンマの縦の変化となります。
(40)
魚眼効果360゚写真。上=北、右=西、下=南、左=東(岩屋岩蔭遺跡の前から撮影)
この天球全体に太陽の動きを示すアナレンマ図を描きます。
アナレンマ図(Analemma Diagram)とは、単体のアナレンマ
を毎正時ごとに描き、二十四節気の日の日周運動の線を重ねた図です。
アナレンマ図を描くと次の図のようになります。
(参照:2025年J-AASJ学会誌6号の『アナレンマを「ステラナビゲータ」で描く』 - 樋口元康)
(参照:『アナレンマ図』で実現する、未来への架け橋 - 星たび)
(41)
太陽の1年間の動きを二十四節気の中気と毎時ごとにダイヤグラムで表示した全天アナレンマ図。
図の下が南、左が東。夏至の前は朝6時に日が差し、冬至の頃は午前10時を過ぎても日は射さないことがわかります。
(シミュレーションによる早見図/観測場所:金山巨石群岩屋岩蔭遺跡前)
(42)
東の空のアナレンマ図。小満〜夏至〜大暑の頃は、谷間の地形から朝6時頃に日が射してきます。
(地平図/金山巨石群岩屋岩蔭遺跡前)
(43)
南東の空のアナレンマ図。秋分・秋分の頃は午前7時〜8時に日が射し、小雪〜冬至〜大寒の頃は午前10時を過ぎてから日が射してきます。
(地平図/金山巨石群岩屋岩蔭遺跡前)
(45) 岩屋岩蔭遺跡の中心線方向の、南南西 S24゚33'Wを中心としたアナレンマ図です。 (地平図/金山巨石群岩屋岩蔭遺跡前)
(46)
西の空のアナレンマ図。
小雪〜冬至の頃は16時頃に日が西の山に沈み、大寒の頃は16時30分頃になり、春分は17時頃、夏至は18時前に日が沈みます。
(地平図/金山巨石群岩屋岩蔭遺跡前)
(47)
岩屋岩蔭遺跡のF石はS24゚33'の南南西方向に約40゚の斜角で覆い被さっています。
この方位を中心にアナレンマ図で太陽高度と、時刻を読み取ることができます。
「太陽カレンダーシミュレータ再現館」の小窓から、
二十四節気の夏至、穀雨・処暑、春分・秋分、雨水・霜降、冬至 の日の太陽光が射し込む高度になります。
(岩屋岩蔭遺跡 - 星たび)
(48) 「太陽カレンダーシミュレータ再現館」は、 岩屋岩蔭遺跡のF石とE石の隙間から太陽光が射し込み、 雨水の日と霜降の日にF石の突出部に太陽光が当たる(写真31) ことをモデルに、 2003年に旧金山町が建設しています。 太陽の年周運動を見学者が直接認識するための教育施設で、 5つの小窓から日差しが射し込むことで太陽高度がわかる仕組みとなっています。 岩屋岩蔭遺跡の太陽光が当たる方向と同じ南南西24度33分方向に向いて建てられています。 日差しが当たる日は、二十四節気の 夏至、穀雨・処暑、春分・秋分、雨水・霜降、冬至 の年に8回です。
(49) 岩屋岩蔭遺跡・金山巨石群の主要な太陽観測ポイントで太陽を観測したときの 太陽方位と高度を、一枚のアナレンマ図に合成した図です。
公転軌道を周回する地球の二十四節気の中気の位置をイメージした図です。
(50) 二十四節気とは、太陽の黄道上の位置を15度ずつ24等分し、それぞれに季節を示す名称を付けたものです。 二十四節気には、節気と中気が交互に配置され、1ヶ月の中に節気が先、中気が後にそれぞれ一つ入るのが基本です。
金山巨石群における太陽観測は、二十四節気の中でも特に「中気」を特定しようとしています。
中気は、月の区切りを確定する役割があり、
雨水、
春分、
穀雨、
小満、
夏至、
大暑、
処暑、
秋分、
霜降、
小雪、
冬至、
大寒
が、30度ずつ配置されます。
旧暦(太陰太陽暦)
では、朔望月
を基準にしているため、太陽の運行とずれが生じます。
(朔望月:29.53日×12ヶ月≒354.4日≠365.24日:平均太陽年)
このずれを調整するために閏月が挿入され、
中気を含まない月が閏月となります。
金山巨石群では、二至二分を観測するだけでなく、二十四節気の中気までも捉えることができます。
中気まで把握できれば、より精密な太陽暦、あるいは太陰太陽暦の運用が可能になります。
これは農耕を行う上で、種まきや収穫の時期を正確に知るために極めて重要でした。
金山巨石群で中気の観測が行われていた可能性が高く、それは高度な暦の管理が行われていたことを示唆しています。
参照:
太陰太陽暦,
置閏法と定気法 - 国立天文台
メトン周期
:太陰太陽暦において閏月を入れる回数(19年に7回の閏月を入れる)を求める。
(約29.53日×235朔望月=6939.60日 ≒ 6939.69日=約365.24日×19太陽年)
(51) 妙見谷に沿った道路の際に、南から見ると三角形で頂部が平になっている巨石が金山巨石群のJ石です。 南面の傾斜角は仰角35度となっており、北に延長すれば北極星の高度・方向になります。 見通すとその先に岩屋岩蔭遺跡があります。 北西面は垂直になっており、方位角は42度、北東に延ばせば線刻石の巨石群があります。
(52) 金山巨石群のJ石(手前)から北方向に岩屋岩蔭遺巨石群があります。 その右側がE石、中央がF石、左にG石があります。
(53)
岩屋岩蔭遺跡のE石の石面には盃状穴と呼ぶ小穴が刻まれています。
見えているのは6個ですが、落石に隠れていた7個目がドイツ人考古学者によりみつかり、
北斗七星だとわかったのです。
しかし、その形が空に見える北斗七星とは逆向きに刻まれていることが不思議でした。
(54)
夜のイベントで、岩屋岩蔭遺跡の石面の盃状穴に点灯すると、
北斗七星が浮かび上がり、
J石から見るとその上の北天に北斗七星が見えています。
太古の昔から世界中で、人々が北斗七星を特別に崇めてきました。
柄杓のような特徴的な形と、北極星を見つけるための重要な目印になり、北極星は方角を知る上で非常に重要でした。
古代の人々にとって、移動や航海の際の道しるべとして、実用的な価値がありました。
天は、古代の人々にとって神秘的な場所であり、神々が住むと考えられていました。
その中で、常に同じ場所に見える北極星を中心に回る北斗七星は、暗闇の中で輝き、
道を示し希望の光や人生の導き手として、困難な状況からの脱却や幸福を祈る精神的な支えとなったと考えられます。
(55) 天文シミュレーションの『ステラナビゲータ』で北斗七星をシミュレーションをした。 岩屋岩蔭遺跡の上に北斗七星の日周運動と年周運動を重ねた図です。 現在、立夏(2025/05/05 21:00)の夜21時の位置が、仰角70度ほどの空高く、柄杓を下向きに見えています。
(56) 約4700年前(BC2700/02/25 21:00)北極星 はりゅう座の4等星トゥバンでした。 北斗七星は天の北極に近いところを周回していました。 立春の夜9時の星空に北斗七星の日周運動と年周運動を重ねた図です。 この時の北斗七星は、立春の21時に仰角50度、岩屋岩蔭のすぐ上に見えています。
(57)
岩屋岩蔭の北斗七星はなぜ逆向きなのか?
発見者のドイツ人考古学者は世界中に逆向きの北斗七星はよくあること言われていたと聞きました。
そこで、「古代の宇宙観」や
名古屋市科学館の天文館5階「宇宙のすがた」の展示に「古代人の宇宙」には、
古代の人々が宇宙をどのようにとらえていたかの展示がヒントになりました。
ヘブライの宇宙観は、
地面は平らで周囲は海で囲まれて描かれていて、
天球はドーム状で、ドームには小さな穴が無数にあり、ドームの外側の光が小穴を通して見えのが星だといいます。
師匠の山田卓(元名古屋市科学館天文主幹)によりますと、
ドームの外側は神の世界で、神は天の北極の向こう側に坐い、
神は天球を回転させ、地上を眺めている。そう古代人は考えていたといいます。
神の視点から天球ドームの星の並びを見ると、星座の形は地上から見る形の裏返しになる。
そう古代人は考えていたといいます。それが太古から続く縄文時代の宇宙観です。
神から見る北斗七星の形は裏返しになる。
そう考えた縄文人は、地上の巨石の壁面に裏返しの北斗七星を彫り、神が地上に降臨する道案内標識にしたのです。
縄文の人が彫った北斗七星が岩屋岩蔭遺跡にあります。
縄文時代の宇宙観では、海に囲まれた大地と頭上を覆う天球の中で、人々は太陽や月、星々の運行を神の働きと捉えました。
特に、天の北極は神々が住まう場所として認識され、人々はそこに向かって畏怖と崇拝の念を捧げていたのでしょう。
(58)
岩屋岩蔭遺跡の巨石の面に彫られた北斗七星は、いつの時代のものなのか?
彗星捜索家の木内鶴彦さんは、
臨死体験者ですが、臨死体験のとき時間を越えて未来も過去も行くことができたそうです。
金山巨石群に是非にとお招きして、この質問をしました。
木内さんは、当時の人が刻んだ北斗七星の形は、今と少し違っていたといいます。
岩屋岩蔭の北斗七星はその形から時代を推定できると言われました。
これをヒントに筆者は天文シミュレーションを試みました。
キーポイントは天の北極の位置と考えました。
天の北極の位置は歳差運動で移行するから、天の北極の位置が決定できれば年代がわかるはずです。
(59)
地球の自転軸は約2万6千年で円を描くように動くのを
「歳差運動」と呼びます。
自転軸を天球まで延長した点を天の北極と呼び、
天の北極に最も近い輝星が北極星となり、
北極星も時代によって変わってきました。
逆に北斗七星と天の北極の位置がわかれば年代を知ることができます。
岩屋岩蔭遺跡の石面に刻まれた逆向きの北斗七星の形が、歳差運動によって過去のどの時代の北斗七星の配置と似ているかを
天文シミュレーションで調べました。
図は7500年前(BC5500年)の天の北極の位置を表しています。
(60)
約7500年前(BC5500/02/25 21:00)当時の北極星は明確ではなかったものの、
北斗七星の
6番目(ミザール)と7番目(アルカイド)から
天の北極の位置を推定することができます。
天の北極の位置は、逆向きの北斗七星の刻まれたE石の尖った先端と推定して、
シミュレーションで冬至の夜19時30分の星空に北斗七星の日周運動と年周運動を重ねて、
石面の北斗七星を上下反転すれば、図の岩屋岩蔭遺跡の北斗七星の形と相似形になります。
(61)
岩屋岩蔭遺跡の石面には盃状穴で北斗七星が逆向きに刻まれている。
歳差運動で天の北極は移動するため、
石面の北斗七星と相似的な位置に巨石の頂部が相当する年代をシミュレーションで探査しました。
すると、 約7500年前(BC5500年)の縄文時代早期に相当することが分かりました。
発掘調査で出土した土器片が8000年前と推定されている所から、逆向きの北斗七星が7500年前というのは、適切と考えます。
(62) 岩屋岩蔭遺跡では、縄文時代にどれだけ正確に太陽観測ができたのだろうか?
(63) 岩屋岩蔭遺跡。右側のE石と左上のF石との間に隙間があり、隙間から太陽光線が内部に射し込む。
(64) 岩屋岩蔭遺跡の内部。左上に見えるE石と左のF石の隙間から太陽光線が内部に射し込みスポット光となって地面に当たる。
(65)
岩屋岩蔭遺跡のスポット光は2月28日と10月14日に測定石と呼ぶ三角形の先端に当たる。
小林さんの観測の結果、閏年の前年には10月15日も当たることがわかりました。
さらに、閏年を含む4年間の繰返しを観測していると4年毎の光の当たる位置が僅かにずれていくことが分かりました。
写真は、測定石に当たる太陽光の位置を計測する小林さん。
(66)
岩屋岩蔭遺跡の測定石に当たる太陽光の位置は、毎年少しずつ変わります。
太陽光の当たる位置は、1年で約1cm、4年で約4cm、4年周期を繰り返して16年で0.5cmずれていました。
これを縦軸に測定石頂点からの太陽光の当たる位置までの距離、横軸に時間(年)としてグラフにしました。
現行のグレゴリオ暦が
400年で97回のうるう年を設ける400年97閏法です。
小林さんは、金山巨石群が古代の太陽観測施設の可能性を発見し、
長年にわたる計測で4年周期の閏年と、閏年ごとの僅かな差を読み取り、128年に31回の閏年を配置する128年31閏法を提唱しました。
(67)
現在の地球の公転周期である平均太陽年は、約365.2422日です。
現在のグレゴリオ暦の置閏法は、
4で割り切れる年はうるう年とし、100で割り切れる年は平年とするが、400で割り切れる年はうるう年とする。
すなわち、400年間で97回のうるう年が挿入されます。
1年の平均日数はが約365.2425日です。
少数3桁までは合いますが、4桁目で誤差が生じます。
小林さんは、岩屋岩蔭遺跡での太陽光の観測から、128年で31回のうるう年を挿入する地順方を提唱しています。
365×97+366×31/128=365.24218日
これを金山暦として、グレゴリオ暦よりも平均太陽年との誤差は少ない、としています。
たしかに現在はその論理で良いのですが、平均太陽年は長期でみると変化します。
縄文時代のの紀元前6700年頃、平均太陽年は、約365.2425日でした。
理論上はグレゴリオ暦が近いのですが、100年に1度は平年が7回続くため、岩屋岩蔭遺跡での観測には不向きです。
(参照:128年31閏法と平均太陽年の誤差推移 - 星たび)
(68)
岩屋岩蔭遺跡での閏年の置閏法は、測定石で現在観測できる方法で試行し、
過去の平均太陽年の値を差し替えて、シミュレーションをしました。
グレゴリオ方式では、平年・平年・平年・閏年の4年が1周期で、
100年に一回(400年に3回)閏年が平年になるから、平年が7回続くときがあります。
そうすると、岩屋岩蔭の測定石で7年連続は、光の当たる位置に7cmのズレができ、測定精度が甘くなります。
この縛りを外すことにしました。
(69)
計算した置閏法は。33年8閏法です。
うるう年の33年周期(33年8閏法)は、1年の日数は365日で4年ごとに366日のうるう年が入り、
32年目は閏年ではなく平年として1年繰り延べて33年目を閏年にします。
この方法による1年の平均日数が365.2424日となり、計算上縄文早期の太陽年と極めて近くなります。
縄文時代に岩屋岩蔭の太陽観測で閏年を測定できた結果の置閏法は33年8閏法で、
4年ごとの閏年を8回32年続け33年目平年で挿入する33年周期と推定しました。
(70) 縄文時代の閏年33年周期を口伝で伝えられたとすれば、どこかに残っているのでは。 そう考えると例えば、滋賀県竜王町にある苗村神社では33年ごとに式年大祭が行なわれています。 苗村神社で取材をしましたが、縄文時代の閏年との関連は謎のままです。
(71) 金山巨石群における太陽観測が二十四節気の中気と関連しているのに対し、 岩屋岩蔭遺跡の測定石に限っては、なぜか二十四節気とは無関係な2月28日、10月14日(閏年前年は10月15日)に 太陽光が当たるという事実に長年疑問を抱いていました。
(72)
この謎を解明するため、アナレンマ図を用いて太陽の軌道を詳細に分析したところ、
太陽が方位E49°23′(49.4°)、高度36°52′(36.9°)を通過する際に、
巨石の隙間を通った太陽光線が測定石の先端に当たることが判明しました。
太陽高度36.9度という数値を目にした時、もしやと思い三角関数 tan(36.9 ) を電卓で計算しました。
そして翌早朝、レーザー距離計を手に岩屋岩蔭遺跡へ向かったのです。
これにより算出された水平距離は5.60m、高さは4.20mとなり、
これは正確に3:4:5の直角三角形の比率で造られていることが判明したのです。
まさに三平方の定理(ピタゴラスの定理)
が示す三角形がそこに隠れていました。
(75)
ピタゴラスの定理は古代ギリシャのピタゴラスが発見したとされていますが、
それ以前から実用的な知識として様々な文明で用いられていた可能性も指摘されています。
もし岩屋岩蔭遺跡でこの比率が意図的に使われていたとすれば、
古代日本において何らかの形でこの数学的原理が理解され、応用されていたことを示唆することになります。
8000年前の縄文人は、ピタゴラスの定理(三平方の定理)を知っていたのか。
知らずに造って偶然合うという精度ではありません。
この発見は、土器片の出土から推定される8000年前(紀元前6000年)の縄文時代においても、
太陽が方位E49°23′(49.4°)、高度36°52′(36.9°)を通過する際に測定石の先端に光が当たることが
アナレンマ図で再現可能であったことを意味します。
写真:名古屋市科学館 理工館4階「公式と図形」より
(76)
岩屋岩蔭遺跡で見つかった3:4:5の直角三角形の斜辺の角度で太陽光線が測定石を照らす現象は、
8000年前の縄文人が数学的定理としてのピタゴラスの定理を知っていた可能性を強く示唆するものです。
縄文人は生活の中で、特定の長さの比率を持つ棒を組み合わせると直角が作れること、
そしてその直角三角形の辺の長さには一定の関係があることを経験的に知っていたのかもしれません。
建物の建造などで直角を正確に作る必要があり、
その過程で3:4:5の比率が有用であることを発見した可能性も考えられます。
岩屋岩蔭遺跡の設計は、その知識を応用したものとも考えられます。
太陽の動きを観測する中で、特定の季節や時刻に特定の角度で光が差し込むことを観察し、
その角度が3:4:5の直角三角形の斜辺の角度と一致することに気づいたのかもしれません。
それを数学的定理として認識していたかどうかは不明ですが、
高度な知識と技術を持っていたことは間違いなく言えるでしょう。
縄文人 (左)国立科学博物館日本館、 (右)岩手県・宮野貝塚出土。国立科学博物館所蔵 名古屋市科学館「生命大躍進」展示より
(77)
岩屋岩蔭遺跡の岩壁には、奇妙なことに逆向きに刻まれた北斗七星の跡が見つかっている。
天文学的なシミュレーションに歳差運動(地球の自転軸の周期的な変化)
を考慮し、縄文時代の宇宙観を重ね合わせると、
約7500年前の縄文人が夜空を見上げ、あたかも神の視点から見たかのような北斗七星をこの地に刻んだ可能性が浮かび上がる。
当時の人々は、天の北極を神々が住まう場所と考え、星の動きを神の意志として捉えていたのかもしれない。
逆向きに刻まれた北斗七星は、彼らの精神世界における宇宙観を映し出す貴重な手がかりとなる。
岩屋岩蔭遺跡では、太陽光の差し込む位置を観測することで、閏年の存在が確認されている。
小林氏の長年の観測と分析により、128年31閏法という独自の閏年配置が提唱されているが、
地球の公転周期の変化を考慮すると、33年に8回の閏年を置く「33年8閏法」という暦法が、
当時の人々に用いられていた可能性も示唆される。
現代の暦とは異なる、縄文時代独自の暦法が存在した可能性は、古代人の知恵の深さを物語る。
さらに驚くべき発見があった。
岩屋岩蔭遺跡の巨石の隙間を通り抜けた太陽光が、特定の場所を照らす際の光線の角度と距離を計測したところ、
驚くほどの正確さで3:4:5の直角三角形を形成していたのだ。
これは、ピタゴラスの定理として知られる数学的な法則である。
8000年前の縄文人がこの定理を数学として認識していたかは定かではない。
しかし、生活の中で直角を作る必要性から、経験的にこの比率の有用性を知っていた可能性は十分に考えられる。
巨石の配置に潜む幾何学的な秩序は、縄文人の高度な知識と技術を示唆していると言えるだろう。
★
この発見は、縄文時代の文化や技術水準を再評価する上で非常に重要な手がかりとなると考えます。
この画期的な可能性について、専門の方々による詳細な調査と分析が不可欠であると考えており、
ぜひご協力をお願いいたします。
(78) 岩屋岩蔭遺跡の南に位置するJ石は、 高さ3メートル、推定重量60トンを超える三角形の巨石で、その南北の面がそれぞれ異なる意味を持つとされています。 南側の斜面は、春分・秋分の日の太陽の正中方向、すなわち地球の地軸に平行であり、現在の北極星を指し示すよう設計されているかのようです。 一方、北側の円弧状に直立した面は、南北の子午線から右に42度という特徴的な方位を指しています。
(79)
北東〜南西の42度に秘められた宇宙の法則
この「42度」という角度は、虹の赤色の光が出現する角度や、
放射性物質が水中を高速で移動する際に発するチェレンコフ光
の円錐状の角度と一致するなど、
物理学的な意味合いを持つ可能性を指摘できます。
レイラインとボーデの法則
さらに驚くべきは、この巨石が指し示す42度の方向を広域地図に引くと、南西約180km先の奈良県の大和盆地を貫通し、
さらに加えて100km先の紀伊半島西端の日ノ御埼へと一直線に繋がるという点です。
このライン上には、古代の祭祀遺跡や聖地としての神社が点在しており、
イギリスで提唱された「レイライン(光の道)」に酷似していると指摘します。
また、日ノ御埼を太陽、大和盆地(鏡作坐天照御魂神社)を地球と仮定すると、金山巨石群が太陽系のボーデの法則
における小惑星(現在は準惑星のケレス
を想定)の位置に相当するという偶然の一致も見出されました。
この「太陽系を地上に再現したかのような配置」は、古代人が高度な天文学的知識を持っていたことを示唆しているかもしれません。
ただし、この場合のレイラインは おそらく偶然の一致だと思います。
(80)
1万2000年前の天の川
ところが、この「42度」の真の重要性は、現代の星空ではなく、
約1万2000年前の夜空に隠されていると考えられます。
地球の歳差運動
(自転軸が約2万6000年周期で移動する現象)を考慮してシミュレーションを行うと、
紀元前9800年頃には、金山巨石群から見た夏の天の川の中心線が、まさにこの巨石の示す42度方向に一致し、
空高く見えていたことが判明したのです。
この約1万2000年前は、最後の氷河期が終わり、
地球規模の気候変動(ヤンガードリアス)
や海面上昇があったとされる激動の時代です。
北東42度に「北十字」の はくちょう座が、南西42度に現在は日本から見えない
「南十字(
みなみじゅうじ座)」が天頂の
天の川の中に配置されていたのです。
参照:巨石遺跡に天の川を見た - 星たび
(81)
レイラインを表示した広域図は、Google Earthの 3D投影図(左下)を使用しています。
この図法は、Webメルカトル図法をベースに仮想的な地球儀の上に表示されているため、見た目は球体に近い形で表示されています。
しかし基となる図法はメルカトル図法
であるため、厳密な意味での方位の正確性は保証されていません。
Webメルカトル図法(上)は、Google Mapのデフォルトで使用されています。この図法は正角図法であり、
近距離の場合の誤差は僅かですが、広域図の方位には歪みが生じます。中心点から真東・真西方向に真っ直ぐ向かうと、図上では曲線になります。
中心点からの正確な方位を表示したい場合には、正距方位図法(右下)が適しています。
正距方位図法で描く地図は、「NS6T's Azimuthal Map」などがあります。
もし正確を期す場合の筆者は、Web計算サイトで数値を確認する、
2地点間の距離と方位角 - 高精度計算サイト や、
現在地と距離と方角からある地点を求める」 を使っています。
(82)
線刻石のある巨石群は、六芒星(ヘキサグラム)
の巨石配置になっています。
六芒星は、2つの正三角形が上下に組み合わさっていて、それぞれ相反する原理や要素を象徴しているといいます。
その相反する要素は、「肉体と魂の調和」「精神と物質の統合」「陰と陽のバランス」「天と地の結合」といった調和を表現し、
この調和が強力なエネルギーを生み出すとされています。
この力は、相反するエネルギーがバランスよく配置されることで、
悪しきものを跳ね返し、浄化する作用があると考えられています。
古くから六芒星は、魔除けや邪悪なものから身を守るシンボルとして世界各地で用いられてきました。
ユダヤ教
を象徴するダビデの星、
日本の「籠目紋」
も六芒星と同じ形をしており、
同様に魔除けの意味合いがあるとされています。
(83)
古代の太陽観測所としての金山巨石群の発見につながったのは、小林氏が写真中央の石に座って、線刻石に気付いたことからです。
この石は、上面が比較的平らで、天体観測の基準点であった可能性や、儀式の供え物を載せる場所として、
中心的な存在であった可能性が考えられます。
巨石群の中には、特に祭壇石とされる巨石が存在しますし、ストーンヘンジの祭壇石に倣って「祭壇石」とすれば良いと思います。
(84)
金山巨石群は、古代の神秘と自然のエネルギーが融合した、
パワースポット
としても注目を集めています。
訪れる人々は、巨石が持つ独特のエネルギーを感じ、癒しや霊感、インスピレーションを得ようと訪れます。
太陽の光が差し込む時間帯を意識して訪れると、古代人が観測していた光景を体感できるかもしれません。
岩屋岩蔭遺跡では、巨石が積み重なった独特の景観は、強いエネルギーを感じさせると言われています。
線刻石のある巨石群では、太陽の運行を示す線刻が刻まれた巨石からは、
古代人の自然に対する深い理解を感じることができます。
(85)
著者が現地踏査をしているとき、民放テレビの取材チームが金山巨石群にやってきました。
真面目に紹介を始めたのですが、番組が主婦向けで午後の放送とのことで途中で方針を変更して、
パワースポットの紹介を始めました。
「この石の上に立って周りを見渡して下さい。巨石に囲まれています。巨石パワーが集まってきます。
ここがパワースポットです。巨石パワーを受け取って下さい!」とやったのです。
放送後は金山巨石群を訪れる見学者が増えたそうです。
(86)
古代中国で発祥した「風水」は、
「気の流れを読み解き、整えることで運気を向上させる」という、環境が運命を左右するという考えに基づいています。
「気」とは、あらゆる場所で流れている生命エネルギーで、
良い気と悪い気があり、悪い気を浄化し、良い気を取り込むことが運気を向上させ、より快適で幸せな生活を送ることになるといいます。
この考えで、自然界のすべてのものを、陰陽五行説
で分類できるという思想です。
もともとは、国の都をどこに置くかといった国家の繁栄を左右する重要な判断のために使われていました。
日本にも飛鳥時代には伝来し、平安京や江戸といった都市の設計に影響を与えています。
風水ではパワースポットのことを「龍穴」という概念で、
エネルギーに満ちた特別な場所としています。
龍穴の地形を、四方を司る神獣(玄武・青龍・朱雀・白虎)が揃っている地形を理想としています。
金山巨石群の立地は、このうち四分の三まで理想に合致していて、普通なら観光地化される条件ですが、
ある意味幸いにも、公共交通機関が不便のため、インバウンドの悪影響から守られているように思います。
(87)
筆者が岩屋岩蔭遺跡で見つけた3つのことは、
・天文シミュレーションソフトで歳差運動を
再現して北斗七星の動きを追い、縄文時代の宇宙観からに北斗七星が逆向きの理由を推定しました。
・また、アナレンマ図を用いて太陽の動きの可視化を行い、現地で実測してピタゴラスの三角形を発見しました。
・さらに地球の公転周期の変化をグラフ化して平均太陽年の変化から縄文時代の閏年の置閏法を推定しました。
(88)
「岩屋岩蔭遺跡は、縄文時代早期から江戸時代の遺物が出土した金山町・岐阜県指定史跡です。
1997年以降、巨石の天体観測利用の可能性が指摘されていますが、考古学的には未実証と書いていあります。
市民団体が主張する「線刻」は自然現象とする意見もあること、太陽の年周運動を利用した観測が行われていた可能性があること、
巨石群の人工的な配置説もあるが、自然現象の可能性も示唆されている。」と書いてあります。
筆者が初めてこれを見たときには、執筆者は現地を知らずに何か部分的資料と推測で書いている印象でした。
Wikipediaへの執筆は、
内容が正確で中立的、検証可能であることを保証する責任をもって書き込みが可能です。
このため、
筆者は、これまでの記事を否定しない範囲で、ピタゴラスの三角形など事実と取材をもとに、「太陽の観測に使用された可能性について……市民団体は主張する。」までを
加筆しました。
(90)
金山巨石群・岩屋岩蔭遺跡は、考古学的な価値だけでなく、
太陽の運行を観測するための施設だったことと暦を測定していたとする可能性が指摘されており、
地域の文化や歴史を伝える重要な遺産としても注目されています。
この遺跡および巨石群が地域経済に及ぼす効果について、少し触れておきます。
経済効果に関する直接的な統計データや詳細な分析で公表されている情報は見つかりませんでしたが次の様な効果が考えられます。
観光客による周辺施設への波及効果:
遺跡を訪れる観光客は、周辺の宿泊施設、飲食店、土産物店などを利用する可能性があり、地域経済への貢献が期待できます。
ささゆりトンネルの効果:
笹百合峠の濃飛流紋岩をくり抜き、ささゆりトンネルを含む
濃飛横断自動車道の一部開通により、
下呂温泉からのアクセスが格段に向上しました。アクセスが便利になることで、
金山巨石群への関心を持つ潜在的な訪問者が実際に行動に移しやすくなり
、観光客数の増加が期待でき、地域経済への波及効果が見込めます。
交通機関の利用: 遺跡へのアクセスに伴い、ガソリンスタンドなどの利用が増える可能性があります。一方、公共交通機関やタクシーの利用は立地条件で限定的です。
岩屋岩蔭遺跡と金山巨石群は、日本の先史時代や古代の人々の生活、信仰、宇宙観を現代に伝える上で
非常に重要な文化的価値と教育的価値を有しています。
長期にわたる生活の痕跡: 県の史跡に指定されているこの遺跡は、
縄文時代早期から弥生時代、さらに中世、近世に至るまでの長期間にわたり人々が利用してきた遺跡です。
特に縄文時代の遺物が出土していること、
岩陰という特殊な空間を利用した太陽・天文観測のために巨石配置を巧みに利用していたことを示しています。
精神文化の痕跡:巨石の中には、祭祀に使われたと考えられるものも含まれており、縄文人の精神文化や信仰の一端を垣間見ることができます。
学術研究の宝庫: 発掘調査と太陽や星の観測によって得られた豊富な資料は、
日本列島における先史時代の人々の生活変遷や文化の地域差などを研究する上で、非常に価値の高い学術情報を提供しています。
保存と活用のバランス: 文化財としての保存が最優先されるため、持続可能な形での活用が求められます。
(91)
金山巨石群が古代の天文観測施設であったという仮説は、まだ多くの謎を秘めています。
しかし、逆向きの北斗七星、ピタゴラスの三角形、そして縄文時代の閏年配置の可能性を示す発見は、
古代の人々の知恵と宇宙への深い理解を物語る上で、重要な手がかりとなるでしょう。
今後のさらなる調査と研究によって、この神秘的な巨石群が秘める古代のメッセージが解き明かされることが期待されます。
悠久の時を超え、現代に語りかける金山巨石群。その神秘的な姿は、私たちに古代の人々の知恵と宇宙への壮大なロマンを感じさせてくれます。
今後の研究の進展が、この古代遺跡に隠されたさらなる真実を明らかにするだろう。