星たび金山巨石群

岩屋岩蔭遺跡・金山巨石群
写真と解説

この写真集は、岩屋岩蔭遺跡と金山巨石群の魅力を多角的に紹介し、古代の人々の知恵と技術に触れることができる資料として作成しています。

概要

  • それでは私の撮影した写真や作成した図を使ってご覧戴きます。
  • (1) 名称説明
    岩屋岩蔭遺跡: 1969年に金山町、1973年から岐阜県が史跡として指定した。
    金山巨石群:1998年から岩屋岩蔭遺跡周辺調査委員会と旧金山町が範囲を加えて金山巨石群とした。 2004年、合併により下呂市に継承している。
    ・行政地名:江戸時代〜:美濃国郡上藩領→旗本(乙原)遠藤領。 明治初期:郡上郡岩屋村→岩瀬村→東村→1955年:益田郡金山町→2004年:下呂市金山町

    (2) 馬瀬川支流妙見谷の左岸南斜面(写真左)に岩屋岩蔭遺跡と金山巨石群がある。
    地図:GoogleMap


    岩屋妙見神社

    (3) 岩屋岩蔭遺跡の祭祀は、太古の時代の人々が抱いていた自然に対する畏怖と崇拝の アニミズムに起源を持つと考えられます。 縄文時代の宇宙観では、海に囲まれた大地と頭上を覆う天球の中で、人々は太陽や月、星々の運行を神の働きと捉えました。 特に、天の北極は神々が住まう場所として認識され、人々はそこに向かって畏怖と崇拝の念を捧げていたのでしょう。
    古神道では神が宿るとされる山や森、 磐座神籬などが神霊の 依り代としている。 岩屋岩蔭の巨石群のなかで高く尖っているE石の先端に、神が最初に降臨する依り代と考えたのであろう。

    (4) 平安時代になると、妙見信仰が日本に伝来し、アニミズムに基づく古来の神々と融合していきました。 妙見信仰は、天の中心を司るとされる北極星や北斗七星をを信仰した妙見菩薩 を神格化したものであり、岩屋岩蔭遺跡においても、妙見信仰の影響を受けた祭祀が行われていたのかもしれません。(江戸時代の古銭が出土しています。)
    明治期以降は神仏分離により岩屋神社として日本神話において 天地開闢の際に最初に現れた神である 国常立神を祀っているが、 公式には同一視される天之常立神としています。

    (5) 平安時代末期1160年の平治の乱平清盛に破れた源義朝子息の 悪源太義平(源義平)は、 飛騨に逃れて門原に逗留した折、人身御供の娘の身代わりになり、 狒々を追いつめてこの岩蔭で退治したという。 その伝説により岩屋岩蔭遺跡は、昭和48年(1973年)に 岐阜県から史跡指定を受けている。
    歴史上の義平は、東国に逃れる途中、門原に到着したところ、 義朝謀殺 の報を知り、清盛を仇討ちするため即刻京に引き返した。偵察潜伏中に石山寺で捕縛され六条河原で落命している。
    なお、狒々退治伝説の狒々は山賊ではないかとの説もあり、真偽は定かではありません。

    (6) 木曽川水系木曽川飛騨川←) 馬瀬川の上流に1976年に完成した 岩屋ダムは、 堤高127mのロックフィルダムである。堤体の計画段階で岩屋神社も水没する計画案もあったが、比較により現在位置に堤体は建設された。 岩屋ダムの建設により東地区(旧岩屋村など)の集落157世帯が水没して住民は故郷を離れた。

    (7) 地区の消滅により岩屋神社の祭神は下流の金山町祖師野にある祖師野八幡宮に合祀され、岩屋神社は祖師野八幡宮の飛地境内になった。 (2004/10撮影)

    (8) 岩屋岩蔭遺跡から下流5キロメートルの下呂市金山町祖師野 にある祖師野八幡宮。 岩屋神社に祀られていた天之常立神が合祀された。 義平の太刀と伝えられる祖師野丸が奉納されている。


    岩屋岩蔭遺跡

    (9) 岩屋の奥にはかつて祀られていた社がある。ここで2001年度に金山町教育委員会の名で岐阜県が発掘調査を行った。

    (10) 岩屋岩蔭遺跡の内部。この地面にトレンチ掘削を行い石器や土器片などが出土した。
    (11) 2001年度(平成13年度)に金山町教育委員会(当時)によって発掘調査が行われ、 2001年度(平成14年3月)に報告書が残されている。 発掘調査で岩陰から多数の石器や土器片が出土し、 このうち押型文土器片が土器編年によって8000年前 縄文時代の遺物と推定された。 したがって岩屋岩蔭は8000年前の紀元前6000年頃には既に築造されていたと考えられる。
    発掘調査の報告書には、 「岩屋岩蔭は流紋岩質溶結凝灰岩と濃飛流紋岩の巨石の上に、北から濃飛流紋岩の巨石が庇状に覆い重なって形成されている。 これら岩陰を構成する巨石は石の種類も堆積方向も谷底付近のものとは異なっており、山からの崩落によるものと考えられる。」 としている。 さらに 岩陰内には外からの木の根が入り込んでいることから、「岩陰を構成する巨石は現地表面からそれほど深くないところに乗っている状態であると考えることができよう。」としている。
    岩屋岩蔭遺跡発掘調査報告書

    (12) 濃飛流紋岩(日本最古の石博物館
    岩屋岩蔭は流紋岩質溶結凝灰岩と濃飛流紋岩の巨石の上に、北から濃飛流紋岩の巨石が庇状に覆い重なって形成されている。
    濃飛流紋岩は、岐阜県北部の飛騨北部から東濃の範囲に分布しており。白亜紀後期(約9000万年前〜7000万年前)に、大規模な火砕流噴火によって形成された。 石英や長石などの斑晶を含むものが多く、非常に硬く風化に強い石材である。 (濃飛流紋岩流紋岩溶結凝灰岩

    (13)  図は、「金山巨石群と日本の考古天文学」2007.6 金山巨石群調査資料室 発行のパンフレットより
     金山巨石群について森永速男(兵庫県立大学名誉教授)は古地磁気学的な調査を行っている。 残留磁気とは、石が生成された当時の地球磁場の情報が記録されるので、 残留磁化の方向を測定すると、岩石が作られた場所から移動したかどうか、あるいは変形を受けたかどうかを調べることができるという調査である。
    一般的に古代人が意図的にこれらの巨石を運搬した場合は、残留磁化の方向は一定では無くバラバラの方向を示すと予想されます。
    調査の結果は、巨石群を構成するほとんどすべての巨石の残留磁化はバラバラな方向を向いており、巨石が移動・回転をしたことを示していた。 これらの巨石が移動・回転したことを示唆するデータが得られたことを報告している。
     森永教授は2025年J-AASJ学会誌6号で、「自然の作用によって移動・運搬された巨石の配置を観察しているうち、天体の運行を利用して季節を知る道具として利用できることに古代人は気付いた。 と考えることも可能」としている。


    金山巨石群の太陽観測

    線刻石のある巨石群

    (14) 岩屋岩蔭から東に40m、森の中に巨石群はあった。

    (15) 高さ7〜9mの巨石が集まり、その1つに深い2本の斜めの線と楕円形が3つ刻まれているのを小林さんが発見し、 線刻石とした。 線刻石をA石。隣接のA'石、D石、B'石とB石、C石。それらの中央に祭壇石で構成する巨石群を 「線刻石のある巨石群」と名付けている。

    (16) 空撮写真(GoogleMap) で見ると岩屋岩蔭遺跡巨石群の東(右側)に巨石群がある。金山巨石群はこれら巨石群と東に見える山の頂上近くの巨石群を含んでいる。

    (17) 線刻石の巨石群の巨石が割れてB石とB'石になったV型隙間に、二十四節気霜降から冬至の日を挟んで雨水まで約120日間の、 山に沈む夕日が射し込み観測ができる。

    (18) 線刻石の巨石群のB石とC石の間を、夏至の日を挟む穀雨から処暑まで120日間の朝日が通過する。
    (19) B石とC石の間を通過した朝の光は、A石の下の空間に射し込む。(左) A石の下から朝日を眺める。(右)
    (20) 「線刻石」と名付けられた巨石に深く刻まれた斜めの2本の線と楕円形の穴が発見されたとき、右側の石の下半分は土に埋もれていた。
    その土を小林さんが柔らかい土を取り除くと奥に広い空間が現れた。 石の隙間から夏の日差しが射し込み、太陽光線が地面に当たっていた。

    (21) 線刻石の下の空間から上を見上げると、巨石の隙間から太陽光が射し込み、スポット光線になった。

    (22) 夏至を挟む前後の期間、線刻石の下の空間の地面に当たる光の形が、線刻の上に刻まれた楕円と同じ形であることがわかった。 最初の小さな光が5月30日に当たり始め、夏至の6月21日で大きい楕円と同じ形、小さくなって7月14日まで地面を照らした。

    (23) 2012年5月21日に金環日食が観測された。 最大食の僅かな瞬間に月の地形の凹凸の隙間を抜けた光が点線となって見えるのが ベイリー・ビーズという。
    金山巨石群はこの金環日食の金環帯の端に位置していて、観測に適した場所に位置していました。
    金山巨石群で見た金環日食 -星たび

    (24) 夏至の30日前の小満の日 と30日後の大暑の日には、 線刻石の下の空間への入口上部の小さな三角石面に、写真のようにベイリー・ビーズのような光の点線が現れる。
    これが現れると線刻石の下の空間の地面に小さな楕円の光が当たり始める。 また夏至を過ぎ地面の光が小さくなると光の点線が現れる。

    岩屋岩蔭遺跡巨石群

    (25) 岩屋岩蔭遺跡の巨石は、右側のE石、中央から覆い被るF石、左のG石、その他で構成する。

    (26) 岩屋岩蔭遺跡では、春分秋分に太陽が西の山に沈む直前、巨石の隙間を光が通り抜ける。

    (27) 岩屋神社の社殿背後の地面にF石とE石の隙間から届く太陽光線が射し込む。

    (28) 岩屋岩蔭遺跡のF石とE石の隙間から太陽光が射し込み、F石突出部に太陽光が当たる。 日差しが当たる日は、二十四節気の雨水(2月18日頃)と霜降(10月23日頃)

    (29) 岩屋岩蔭遺跡のF石とG石の隙間に二十四節気の雨水(2月18日頃)と霜降(10月23日頃)の夕方太陽光が射し込む。


    東の山巨石群

    (30) 冬至を挟む夕方の朝の観測はできるが、冬至の朝の観測は山陰に遮られて難しい。 そこで小林さんは東に約800m離れた山の上を探索したところ、巨石群を発見し、太陽観測ができることを確認している。

    (31) 山の上に発見された「東の山巨石群」で、冬至の日を挟む霜降から雨水まで120日間の朝の太陽観測ができる。
    なお、東の山は道は無く私有地のため自由な立ち入りはできない。

    (32) 金山巨石群の岩屋岩蔭遺跡巨石群と線刻石のある巨石群の配置図 (金山巨石群 - 星たび)


    アナレンマ図

    (33) 公転軌道を周回する地球の二十四節気の中気の位置をイメージした図。

    (34) 観測地から見た天球に太陽の運動を描くと、 日周運動は季節で太陽の南中高度が変化し、 同じ時刻の太陽は均時差によって8の字を描く。

    (35) アナレンマ(analemma)とは、1年を通して同じ場所から同じ時刻に太陽を観察したとき、太陽が空に描く8の字型の軌跡のこと、 図は12:00JSTのアナレンマ。冬至が下端、夏至が上端。二十四節気の位置をプロットした。
    ・参照:巨石遺跡にアナレンマを見た-星たび

    (36) 魚眼効果360゚写真。上=北、右=西、下=南、左=東(岩屋岩蔭遺跡の前から撮影)
    この天球全体に太陽の動きを示すアナレンマ図を描くと次の図のようになります。

    (37) 太陽の1年間の動きを二十四節気の中気と毎時ごとにダイヤグラムで表示した全天アナレンマ図。 図の下が南、左が東。夏至の前は朝6時に日が差し、冬至の頃は午前10時を過ぎても日は差さない。
    (シミュレーションによる早見図/観測場所:金山巨石群岩屋岩蔭遺前)

    (38) 東の空のアナレンマ図。小満〜夏至〜大暑の頃は、谷間の地形から朝6時頃に日が射してくる。。
    (地平図/金山巨石群岩屋岩蔭遺前)

    (39) 南東の空のアナレンマ図。秋分・秋分の頃は午前7時〜8時に日が射し、小雪〜冬至〜大寒の頃は午前10時を過ぎてから日が射してくる。。
    (地平図/金山巨石群岩屋岩蔭遺前)

    (40) 真南を中心としたアナレンマ図。 (地平図/金山巨石群岩屋岩蔭遺前)

    (41) 西の空のアナレンマ図。 小雪〜冬至の頃は16時頃に日が西の山に沈み、大寒の頃は16時30分頃になり、春分は17時頃、夏至は18時前に日が沈む。
    (地平図/金山巨石群岩屋岩蔭遺前)

    (42) 岩屋岩蔭遺跡のF石はS24゚33'の南南西方向に約40゚の斜角で覆い被さっています。
    この方位を中心にアナレンマ図で太陽高度と、時刻を読み取ることができます。 「太陽カレンダーシミュレータ再現館」の小窓から、 二十四節気の夏至、穀雨・処暑、春分・秋分、雨水・霜降、冬至 の日の太陽光が射し込む高度になります。
    岩屋岩蔭遺跡 - 星たび

    (43) 「太陽カレンダーシミュレータ再現館」は、 岩屋岩蔭遺跡のF石とE石の隙間から太陽光が射し込み、 雨水の日と霜降の日にF石の突出部に太陽光が当たる(写真18) ことをモデルに、 2003年に旧金山町が建設した建物。 太陽の年周運動を見学者が直接認識するための教育施設で、 5つの小窓から日差しが射し込むことで太陽高度がわかる仕組み。 岩屋岩蔭遺跡の太陽光が当たる方向と同じ南南西24度33分方向に向いて建てられている。 日差しが当たる日は、二十四節気の 夏至、穀雨・処暑、春分・秋分、雨水・霜降、冬至 の年に8回。


    逆向きの北斗七星

    (44) 金山巨石群J石は、南から見ると三角形で頂部が富士山型になっている。 南面の傾斜角は仰角35度となっており、北に延長すれば北極星の高度・方向になる。 北西面は垂直になっており、北東に延ばせば線刻石がある。

    (45) 金山巨石群J石(手前)から北方向に岩屋岩蔭遺巨石群。岩屋岩蔭遺右側E石の石面に小さな白い点が見える。

    (46) 岩屋岩蔭遺跡の石面には盃状穴と呼ぶ小穴が刻まれている。見えていたのは6個であったが、 落石に隠れていた7個目がみつかり、北斗七星だとわかった。
    だが逆向きに刻まれていることがわかった。 (金山巨石群 - 星たび

    (47) 夜間、岩屋岩蔭遺跡の石面の盃状穴に点灯すると、北斗七星が浮かび上がり、J石から見ると北天に北斗七星が見える、 (金山巨石群 - 星たび)

    (48) 『ステラナビゲータ』で北斗七星をシミュレーションした。 現在(2025/05/05 21:00)立夏の夜9時の星空に北斗七星の日周運動と年周運動を重ねる。

    (49) 約4700年前(BC2700/02/25 21:00)北極星はりゅう座トゥバンだった。 北斗七星は天の北極に近いところを周回していた。立春の夜9時の星空に北斗七星の日周運動と年周運動を重ねた。 シミュレーションした北斗七星の角度は、石面の北斗七星とは違うようだ。

    (50) 約7500年前(BC5500/02/25 21:00)北極星は明確ではなかったが、北斗七星の7番目(アルカイド)から天の北極の位置を推定することができた。 シミュレーションで冬至の夜9時の星空に北斗七星の日周運動と年周運動を重ねると、 石面の北斗七星を上下反転した形に似ている。

    (51) なぜ逆向きなのか?
    発見者は世界中に逆向きの北斗七星はあるというが、何故逆向きなのか。
    縄文時代の宇宙観では、神が見る星座は逆向きに見えると古代人は考えてからだ。
    名古屋市科学館の天文館5階「宇宙のすがた」の展示に「古代人の宇宙」には、 古代の人々が宇宙をどのようにとらえていたかの展示がある。 ヘブライ宇宙観は、地面は平らで周囲は海で囲まれて描かれている。 天球はドーム状で、ドームには小さな穴が無数にあり、ドームの外側の光が小穴を通して見えのが星である。 縄文人は、ドームの外側は神の世界であり、神は天球を回転させ、地上を眺めていると考えると、 神が星座を見ると星座の形は、地上から見る形の裏返しになる。 そう考えた縄文人は、地上の巨石の壁面に北斗七星を彫り、神が地上に降臨する道案内標識にしたのです。 縄文の人が彫った北斗七星が岩屋岩蔭遺跡にあります。

    (52) 刻まれた北斗七星の年代を推定します。地球の自転軸は約2万6千年で円を描くように動くのを 「歳差運動」と呼びます。 自転軸を天球まで延長した点を天の北極と呼び、 天の北極星も時代によって変わってきました。 天の北極に最も近い星が北極星となる。 逆に北斗七星と天の北極の位置がわかれば年代を知ることができる。
    岩屋岩蔭遺跡の石面に刻まれた逆向きの北斗七星の形が、歳差運動によって過去のどの時代の北斗七星の配置と似ているかをコンピューターで調べました。 図はBC5500年の天の北極の位置を表しています。 図の左右を逆にすれば、(53)図の岩屋岩蔭遺跡の北斗七星の形と相似形になります。

    (53) 岩屋岩蔭遺跡の石面には盃状穴で北斗七星が逆向きに刻まれている。 歳差運動で天の北極は移動するため、 石面の北斗七星と相似的な位置に巨石の頂部が相当する年代をシミュレーションで探査しました。 すると、 約7500年前(BC5500年)に相当することが分かりました。
    金山巨石群 - 星たび


    ◆ 岩屋岩蔭遺跡の石面に逆向きに刻まれた北斗七星を、 歳差運動を考慮した シミュレーションにより、約7500年前(BC5500年)のものである可能性があります。

    縄文時代の閏年配置

    (54) 岩屋岩蔭遺跡は、どれだけ正確に太陽観測ができたのか?

    (55) 岩屋岩蔭遺跡。右側のE石と左上のF石との間に隙間があり、隙間から太陽光線が内部に射し込む。 (岩屋岩蔭遺跡 - 星たび

    (56) 岩屋岩蔭遺跡の内部。左上に見えるE石と左のF石の隙間から太陽光線が内部に射し込みスポット光となって地面に当たる。 (金山巨石群 - 星たび

    (57) 岩屋岩蔭遺跡のスポット光は2月28日と10月14日に測定石と呼ぶ三角形の先端に当たる。 小林さんの観測の結果、閏年の前年には10月15日も当たることがわかりました。
    さらに、閏年を含む4年間の繰返しを観測していると4年毎の光の当たる位置が僅かにずれていくことが分かりました。
    写真は、測定石に当たる太陽光の位置を計測する小林さん。

    (58) 岩屋岩蔭遺跡の測定石に当たる太陽光の位置は、毎年少しずつ変わる。太陽光の当たる位置は、1年で約1cm、4年で約4cm、4年周期を繰り返して16年で0.5cmずれていた。 これを縦軸に測定石頂点からの太陽光の当たる位置までの距離、横軸に時間(年)としてグラフにした。
    現行のグレゴリオ暦が400年で97回のうるう年を設ける400年97閏法です。
    小林さんは、金山巨石群が古代の太陽観測施設の可能性を発見し、 長年にわたる計測で4年周期の閏年と、閏年ごとの僅かな差を読み取り、128年に31回の閏年を配置する128年31閏法を提唱しました。

    (59) 縄文時代は太陽年の値が現在とは違うため,グレゴリオ暦の置閏法は使えません。
    小林さんの提唱する置閏法は、現在から遡って3000年ほどは適合しますが、 それ以前は徐々にずれていくことが、平均太陽年の推移から分かりました。
    128年31閏法と平均太陽年の誤差推移 - 星たび

    (60) 岩屋岩蔭遺跡での閏年の置閏法は、測定石で現在観測できる方法で試行し、過去の平均太陽年の値を差し替えて、シミュレーションをしました。

    (61) 計算した置閏法は。33年8閏法です。 うるう年の33年周期(33年8閏法)は、1年の日数は365日で4年ごとに366日のうるう年が入り、32年目は繰り延べて33年目をうるう年にします。 この方法による1年の平均日数が365.2424日となり、計算上縄文早期の太陽年と極めて近くなります。
    縄文時代に岩屋岩蔭の太陽観測で閏年を測定できた結果の置閏法は33年8閏法で、 4年ごとの閏年を8回32年続け33年目平年で挿入する33年周期を推定しました。

    (62) 縄文時代の閏年33年周期を口伝で伝えられたとすれば、
    例えば、滋賀県竜王町にある苗村神社では33年ごとに式年大祭が行なわれているが、 苗村神社の例と縄文時代の閏年との関連は謎です。

    ◆ 岩屋岩蔭遺跡の測定石への太陽光の当たり方のずれから、縄文時代の閏年が4年周期であり、さらに詳細な33年8閏法という置閏法を用いていた可能性を推定しました。


    ピタゴラスの三角形

    (63) 金山巨石群での太陽観測の日は、二十四節気の中気の日と関連があるのに、何故か岩屋岩蔭の測定石の場合だけは 2月28日と10月14日、閏年の前年には10月15日という 二十四節気とは関係がない日である。

    (64) アナレンマ図を出力すると、太陽が方位E49゚23'(49.4゚)高度36゚52'(36.9゚)を通過するとき、巨石の隙間を通った太陽光線が、測定石の先端に当たる。
    太陽高度36.9度、断面のポンチ絵を描いたとき、もしやと思いました。三角関数 tan(36.9゚) は? 電卓を叩きました。
    そして翌早朝、レーザー距離計を持って岩屋岩蔭遺跡に向かったのです。

    (65) 岩屋岩蔭遺跡の巨石の隙間を通り抜けた太陽光が、測定石の先端に当たる時に、 光線の角度と距離を計測をしたところ、斜距離は7.00m、太陽スポット光線の角度は  仰角36度52分(36.87°)で、水平距離5.60m、高さ4.20mであった。  正確に3:4:5の直角三角形の角度に造られていることが分かった。  これは三平方の定理(ピタゴラス)の三角形になっていた。 (岩屋岩蔭遺跡 - 星たび

    (66) 8000年前の縄文人は、三平方の定理(ピタゴラスの三角形)を知っていたのか。 知らずに造って偶然合うという精度では無い。
    名古屋市科学館 理工館4階「公式と図形」より

    (67) 岩屋岩蔭遺跡で見つかった3:4:5の直角三角形の角度は、土器片の出土した8000年前(BC6000年)であっても 太陽が方位E49゚23'(49.4゚)高度36゚52'(36.9゚)を通過するとき、測定石の先端に当たることがアナレンマ図でも再現できました。

    ◆ 岩屋岩蔭遺跡で、3:4:5の直角三角形の斜辺の角度で太陽光線が射し込み測定石を照らすのが見つかったことは、 8000年前の縄文人が数学的定理としてピタゴラスの定理を知っていた可能性を強く示唆するものです。
    縄文人は生活の中で、特定の長さの比率を持つ棒を組み合わせると直角が作れること、 そしてその直角三角形の辺の長さには一定の関係があることを経験的に知っていた可能性があります。
    建物の建造などで、直角を正確に作る必要があり、その過程で3:4:5の比率が有用であることを発見した可能性もあります。 岩屋岩蔭遺跡の設計は、その知識を応用したものと考えられます。 太陽の動きを観測する中で、特定の季節や時刻に特定の角度で光が差し込むことを観察し、 その角度が3:4:5の直角三角形の斜辺の角度と一致することに気づいたのかもしれません。 それを、数学的定理として認識していたかどうかは不明ですが、高度な知識と技術を持っていたことはいえるでしょう。
    この発見は、縄文時代の文化や技術水準を再評価する上で非常に重要な手がかりとなると考えます。


    パワースポット


    (68) 中央の石が祭壇石です。線刻石を発見したときに座っていた石だそうです。
    スピリチュアルな話は排除したいのですが、CBCテレビの取材チームが金山巨石群にやってきました。 真面目に紹介を始めたのですが、番組が主婦向けで午後の放送とのことで途中で方針を変更して、 パワースポットの紹介を始めました。
    「この石の上に立って周りを見渡して下さい。巨石に囲まれています。巨石パワーが集まってきます。 ここがパワースポットです。巨石パワーを受け取って下さい!」とやったのです。 放送後は金山巨石群を訪れる女性が増えたそうです。


    まとめ

    (69) 私が岩屋岩蔭遺跡で見つけた3つのことは、
    ・天文シミュレーションソフトで歳差運動を 再現して北斗七星の動きを追い、縄文時代の宇宙観からに北斗七星が逆向きの理由を推定しました。
    ・また、アナレンマ図を用いて太陽の動きの可視化を行い、現地で実測してピタゴラスの三角形を発見しました。
    ・さらに地球の公転周期の変化をグラフ化して平均太陽年の変化から縄文時代の閏年の置閏法を推定しました。
    このうちこれまでの取材と併せて、ピタゴラスの三角形などについて、 「太陽の観測に使用された可能性について……市民団体は主張する。」までを岩屋岩蔭遺跡 - Wikipediaに執筆しています。

    (70) Wikipediaへの執筆は、 内容が正確で中立的、検証可能であることを保証する責任をもって書き込みが可能です。

    (71) 縄文人 (左)国立科学博物館日本館、 (右)岩手県・宮野貝塚出土。国立科学博物館所蔵 名古屋市科学館「生命大躍進」展示より

    岩屋岩蔭遺跡・金山巨石群が天体観測に使用されたことはほぼ間違いの無いことです。 しかし、一般の専門家が納得する、 古代の巨石遺跡が天体観測に使用されたかどうかを実証するのは非常に難しいことです。
    現代人が古代人の意図を完全に理解することはできないし、巨石の配置がたまたま太陽の動きと一致している可能性も否定できないです。線刻やマーキングが特定の星や太陽の動きと配置や構造などが一致する必要があります。
    関連する遺物や測定道具、記録を残すものの出土があればよいのですが、特に文字を持たない文化の場合は、直接的な証拠を得るのが困難です。
    そのため間接的な証拠の積み重ねが必要です。 巨石の配置や方位が、偶然では起こりえないほどの高い確率で特定の方位や天体の動きと一致することを示す統計的な分析が必要です。天文学的な計算に基づいて、当時の天体の動きと巨石の配置が整合性を持つことを示す必要があります。 単純に「見える」だけでなく、具体的な季節や天象と巨石の配置がどのように対応するのかを詳細に説明できる必要があります。遺跡全体の構造や、周辺の環境、他の遺物との関連性などを考慮し、巨石が単なる自然物や生活に関わるものではなく、天体観測という特別な目的のために配置された可能性が高いことを示す必要があります。 特定の天文現象が観測された時代と一致する代測定の精度を高める必要があります。
    結論として、考古学的に実証されるとは、単なる可能性の指摘ではなく、複数の独立した証拠が積み重なり、偶然では説明できないレベルで、巨石が意図的に天体観測のために配置・利用された蓋然性が非常に高いと専門家が認めることが必要です。
    この巨石遺跡を自分の目で見て方位を測り、巨石の配置は自然の力によるものか、巨石には人の力が加わっているのかを確認して戴きたく思います。


    ・写真・図・文:樋口元康
    ・参照資料: