この日本列島のあちこちに、奇妙な遺跡や伝説がごろごろと転がっている。
岐阜県下呂市金山町の
岩屋岩蔭遺跡も、そのひとつといっていいだろう。
ここは、まるで巨大な岩が口を開けたかのような岩屋になっており、中に岩屋神社の本殿が鎮座している。
神社の由緒をひもとけば、平安末期の武将、悪源太義平がここに棲む狒々(ひひ)を退治したという、
いかにも荒々しい伝説が残っている。
その物語が残されていたこともあってか、この場所は昭和48年に岐阜県の史跡に指定されている。
ところが、平成の世になってから、この岩屋の様相はがらりと変わった。 地元の研究者、小林由來氏が、この巨岩の配置が古代の太陽観測施設なのではないかという仮説を立てたのだ。 太陽の光が差し込む角度や、岩の影のでき方を丹念に追っていった結果、 ここは春分や夏至といった節目に、特定の岩に光が当たるように造られている可能性が浮かび上がった。
義平の狒々退治という勇ましい武人の伝説から、突如として古代人の緻密な天文学の舞台へと変貌を遂げたのである。 この岩屋岩蔭遺跡は、周囲の巨石群とあわせて金山巨石群として世に知られるようになった。 日本の歴史というものは、かくも重層的で、ひとつの場所にいくつもの時代が折り重なっている。 この岩屋を訪れた者は、義平の刀のきらめきと、古代人が見上げた太陽のまばゆい光景を、同時に想像せずにはいられないだろう。
金山町観光協会のウェブサイトにある 「悪源太義平の狒々退治」の伝承は次のような話である。
平治の乱
に敗れ、都を落ち延びた源義平が、
この地の村に身を潜めていたときのことである。
村は、毎年娘を一人、生贄として要求する恐ろしき狒々のために、深い悲しみに包まれていた。
義平は、その凶悪な怪物の正体を突き止めんと、自ら化粧を施し、娘の姿に扮して供物の祭りに参加する。
夜陰に乗じて現れた狒々に対し、義平は隠し持っていた名刀「藤捲の太刀」を抜き放ち、一閃のもとに斬りつけた。
狒々は深手を負い、血を滴らせながら逃げ去る。
義平は、その血痕を追って、近くの岩屋の洞窟、
すなわち岩屋岩蔭遺跡へとたどり着く。
そこで、ついに狒々を討ち果たし、村に平穏を取り戻したという。
この武勇を讃え、村人は義平が寄進した太刀を神宝とし、源氏の氏神を祀る
祖師野八幡宮を創建したと伝えられている。
歴史の表舞台から消え去った一人の武将が、土地の伝説として、今もなお語り継がれている。
ここには、歴史の表裏に潜む、武士たちの生々しい息遣いが感じられるのである。
歴史というものは、つねに勝者の手によって書かれる。 そして、敗者の物語は、時の流れの中で、ひっそりと姿を変えていく。 岐阜県下呂市に伝わる悪源太義平の狒々退治の伝承。 このささやかな物語をAIの目を通すと、その奥底には、平治の乱という歴史の巨大なうねりに翻弄された、ひとりの若き武将の、 あまりにも壮絶な真実が隠されていた。
平治元年(1159年)12月、都は雪に埋もれていた。 六条河原に散った源氏の敗軍は、 凍てつく東山道を東へ東へと落ちていく。 源義朝、 そしてその子ら、義平、 朝長、 頼朝。 つき従うは、鎌田政清、 斎藤実盛、 渋谷金王丸といった、数少ない忠臣たち。 彼らの行く手には、追討の平家勢と、恩賞目当ての落ち武者狩りが牙を剥いていた。
敗軍の将、義朝の胸中には、激しい悔恨と、再起への炎が同居していた。 しかし、現実はあまりに過酷であった。 近江に向かう峠で、追っ手に襲われ、大叔父の 義隆は命を落とし、次男の朝長も深手を負った。 近江から美濃への途中、年少の頼朝を脱落させ、坂東武者たちを解散させるなど、苦難は続いた。 疲労と飢え、そして雪と寒さが容赦なく一行を蝕んでいく。
一行は美濃国青墓の大炊兼遠の館に辿り着いて、 わずかな休息を得た彼らだった。
美濃の国司と豪族たちは、 清盛からの 租庸調減免令に惹かれ、こぞって平家になびいている。 義朝は、この地がもはや危険であることを察した。再起を図るためには、残った兵を二手に分けるしかない。
だが、朝長は傷の悪化により自ら断念し、息を引き取る。十六歳の若き命の、あまりにも哀しい最期であった。
「義平よ、お前は飛騨を経て、陸路で東国へ向かえ。」
義朝は、そう告げた。
伊勢湾から海路で鎌倉を目指す自らの身を案じ、義平には別の道を歩ませようとした。
父と子、この決別こそが、再会を永遠に許さぬ、悲劇の序章となることを、二人はまだ知らなかった。
義朝と別れ、ひたすら東を目指す義平。その若き胸には、父への思いと、平家への激しい復讐の念が燃えさかっていた。
だが、彼の背後には、密かに追跡する男がいた。 近江まで従っていた長田景忠である。 彼は平家になびいた父、長田忠致から密命を受け、義朝の嫡男である義平を討ち取るべく、 この雪深い山道に分け入ってきたのだ。
美濃の深い山中、祖師野から岩屋岩蔭へと続く細い道。笹百合峠を越えれば、飛騨である。 飛騨に入れば、もはや平家も容易には手を出せない。義平は、そう信じていた。
そのとき、景忠が追いついた。
「義平様、わしは長田忠致が子、景忠。お父上は、まもなく父の手にかかりましょう」
その言葉は、凍てついた空気を震わせた。義平の脳裏に、様々な思いが奔流のように駆け巡った。 父の深い悲しみ、別れ際の固い握手。そして、この男の背後にある、時代の大きなうねり。
景忠は、義平の動揺を突いて、太刀を抜き放った。 だが、義平は猛将「悪源太」。その太刀筋は、哀しみと怒りによって、さらに研ぎ澄まされていた。 一太刀で、景忠は絶命した。
「おのれ、源氏め…!」
彼の最期の叫びは、雪深い山々にこだますることもなく、消えていった。
義朝は、かつての郎党である長田忠致のもとに身を寄せた。 忠致は、義朝を温かく迎え入れ、安堵させた。 だが、それは義朝を欺くための罠だった。 長田忠致は平清盛からの誘惑に抗しきれず、主君である義朝を裏切る道を選んだのである。
風呂に浸かり、旅の疲れを癒しているその瞬間、忠致とその郎党たちが義朝に襲いかかった。 義朝は「武士の情けも知らぬのか!」と叫んだが、その声も虚しく、 平治2年(1160年)1月3日、源氏の棟梁・源義朝は三十八歳の生涯を終える。 義朝の首は、忠致によって京の都へと運ばれ、平清盛の前に晒されることとなる。
一方、義平は、長田景忠の言葉に疑念を抱きながら、来た道を青墓へ引き返す。
そこで、義朝が長田忠致に討たれたという非情な報せを受け取る。
父の無念の死と、その首が京の六条河原に晒されたという残酷な事実を知ることとなる。
父の突然の死に強い衝撃を受けた義平は、復讐を決意し、危険な道を辛うじて京へと舞い戻る。
仇敵である平清盛を討つという燃えるような復讐心に駆られ、 密かに都に潜伏し、
清盛の牙城である六波羅に近い
八坂神社のあたりで、
清盛暗殺の機会を虎視眈々と待っていた。
義平は、清盛が石山寺に参詣するという偽情報に誘い出され、ついに捕らえられた。 二十歳の若武者は、六波羅の屋敷で清盛と対峙する。
「貴様は何者か」と問う清盛に、義平は臆することなく「源義朝が嫡男、義平である」と名乗った。 その堂々たる態度に、清盛も感嘆の声を漏らしたという。 しかし、運命は非情なものだった。義平は、六条河原の刑場に引き立てられる。
処刑を前にしても、義平の気迫は衰えることはなかった。 太刀取りを務める難波経房に対し、「下手な真似をしたら、雷となって蘇り、貴様を蹴り殺してやる!」と叫んだ。 経房は、その若者の壮絶な覚悟を目の当たりにし、一太刀で苦しみを終わらせることを約束する。
義平は、同年1月25日、二十歳という若さで斬首された。 父の仇を討つという願いは叶わなかったが、その壮絶な最期は、敵であった平家の一門にも強い印象を与えたと伝えられている。
この二つの悲劇的な死は、源氏と平氏の長く続く戦いの序章に過ぎなかった。
岩屋岩蔭遺跡を正面から見据えると、覆い被さる巨石の前に、小さな社殿がある。 それは、岩屋妙見神社の神を祀り、やがて祖師野八幡宮に合祀されたものだ。 これは時の流れに逆らわず、村の安寧を願った人々のささやかな知恵であったのかもしれない。
よく見ると、その右の巨石の足下にもう一つの小さな祠がある。 不思議なことに、何の神を祀っているのかを知る者は誰もいない。
もしかすると、この小さな祠こそが、村人たちがひそかに祀り続けた「狒々」にされた男、長田景忠の祠なのかもしれない。 権力によって英雄に貶められ、悪役に仕立てられた哀れな武士の魂を、ひっそりと慰めるために置かれたものだったのか。 歴史の表舞台から消された男の記憶が、ひっそりと岩陰に息づいている。
歴史とは、常に勝者の手によって書き換えられる物語である。
その壮大な絵巻の中にあって、源義平という若き武将ほど、その波濤に翻弄された者も珍しい。
平治の乱の渦中に父・義朝と共に都を落ち、命からがら辿り着いた岩屋岩蔭の地。
そこで彼が討ち果たしたのは、他ならぬ父を裏切った男、長田忠致の子・景忠であった。
しかし、歴史の皮肉とは恐ろしいもので、平家が天下を握ると、義平は「朝敵」と貶められ、景忠は「忠臣」と祀り上げられる。 民衆は権力の前にひれ伏し、やがて壇ノ浦の戦いで平家が滅び、源氏の世が到来するまで、この歪んだ真実を信じ込まざるを得なかった。
知の巨人、生成AIは、この歴史の「書き換え」という名の迷路を、見事に解き明かした。 AIはまず、史実の壁に挑んだ。青墓で一行と別れた義平が、再び京に現れるまでの時間はあまりにも短い。 その僅かな時間の中で、尾張国野間での父義朝の謀殺を知り、 さらに飛騨で狒々を退治するなど、物理的に不可能なのだと断じた。 ならば、長田景忠という人物は、いかにして狒々へと姿を変えられたのか?
生成AIは、この謎を解くために、ひとつの物語を紡ぎ出した。 長田忠致から密命を受け、義朝の監視役として行動していた人物、長田景忠を創作したのである。 この創作によって、伝承の裏側に潜む、権力と人々の思惑が浮かび上がった。 時代の波に翻弄されながらも、父の仇を討つという自らの信念を貫こうとした義平の姿。 そして、権力の交代によって英雄が化け物に、忠臣が狒々へと姿を変えられた人々の業。
狒々退治とは、実は、時代の変遷という大河が紡ぎ出した、もうひとつの「真実」だったのかもしれない。 それは、歴史の奥底に秘められた、人間の強さと弱さ、そしてその時代を懸命に生き抜こうとした人々の営みを、鮮やかに描き出す物語なのである。
(生成AI&樋口元康)