【小説】
異聞・岩屋岩蔭の狒々退治
樋口元康
歴史と伝承、真実と虚構は、時に交錯し、複雑な物語を紡ぎ出す。
一:笹竜胆の女性
名古屋駅を 7時45分に発車する特急ひだ1号
゚。JR東海のHC85系
゚
は、前面が白と黒、側面が白とオレンジのライン、ステンレスの車体が朝日を受けて輝いていた。
座席の向きが逆方向で発車すると、静かなディーゼル音とVVVFインバータ
゚
の変速音が調和して、心地よい振動が伝わってくる。無料でWi-Fiが利用できるのが嬉しい。
通路側の席には、どこか神秘的な雰囲気を漂わせる和装の女性が座っていた。
車窓に稲沢機関区
゚のELたちが時速120キロで通り過ぎていく。
ひだ1号は 8時04分に岐阜駅に到着。進行方向が変わって高山本線
゚に入る。
笹竜胆
女性の召し物の、瑠璃紺色
゚の小紋に描かれた柄が目に入った。
洒落たデザインで笹の葉とリンドウの花が印象的に描かれた柄になっている。
それは「笹竜胆(ささりんどう)
゚の紋ですね。と声をかけた。
笹竜胆は源氏
゚の家紋である。「源氏にゆかりのある家系ですか?」
女性は静かに微笑んだ。
テレビ放送初期の1959年に放送されたテレビドラマ「豹(ジャガー)の眼」
゚は、
ジンギスカンの秘宝
゚を奪い合う話で、舞台は飛騨だった。
SLの牽引する客車列車の屋根の上で、トンネルを伏せながら命がけの格闘シーンがあった。
登場する正義の味方は、月光仮面
゚の俳優が演じた白装束の剣士「笹りんどう」だった。
ひだ1号は 美濃太田駅を過ぎると飛騨川
゚に沿って北上していく。
飛騨川は、源流は北アルプス
゚の乗鞍岳
゚に発し、
下呂市
゚を流れ下る。
飛水峡
゚や日本最古の上麻生礫岩
゚の岩場を経て美濃加茂市で合流して木曽川となり、伊勢湾に注ぐ。
中国の陰陽五行思想
゚に基づいた地理風水
゚では、自然環境が人の運気に与える影響を重視している。
川の流れを竜に見立てて、飛騨川・木曽川は古くから竜神信仰
゚と結びついている。
二:平治の乱と落ち武者の源義朝
笹の葉に竜が描かれた笹竜胆(ささりゅうたん)の家紋は、平安京時代の最盛期に嵯峨天皇
゚から、
皇族から臣籍降下した源氏の祖が賜った。代々奥州征伐で名声を高め、平安時代末期に源義忠
゚の四男・源義朝
゚が家督を継いだ。
源義朝は、少年期に都から関東に下向し、東国の武士団を統率して都に戻ると、
朝廷は武士団を重用するようになり、義朝は重要な地位に就く。
平安時代末期の1156年に朝廷内部の抗争が武力衝突へと発展し、保元の乱
゚が起こる。
その結果、崇徳上皇方
゚の敗北により、
藤原摂関家
゚は凋落する。
後白河天皇
゚は院政を敷き、朝廷における武家勢力が台頭していく。
源義朝は、後白河天皇方に付き、勝利に貢献する。
しかし、平清盛
゚ら平家一門への恩賞と比べると義朝らは冷遇される。
保元の乱の後に強大な実権を握った藤原信西
゚に対し、
藤原信頼
゚を中心に反信西派が形成され、源義朝もそれに連なる。
源義朝は、関東にいる長男の源義平
゚に援軍を要請して、
義平は東国の武士を引き連れて上洛する。
義平が悪源太と呼ばれるようになったのは、
父頼朝が下野守に任じられ関東を地盤としていたとき、義朝と叔父の間で家督を巡って抗争
゚があった。
15歳の義平はこの戦で大いに武名をあげ「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになる。
この「悪」は善悪の悪ではなく、「強い」「猛々しい」というほどの意味から、
「鎌倉の剛勇な源氏の長男」という意味である。
『平治物語絵巻』三条殿焼討(ボストン美術館)
保元の乱からわずか3年後の1159年の12月9日深夜に反信西派は院御所・三条殿
゚を襲撃し、
平治の乱
゚が起きる。
源氏・平氏をはじめとする武家勢力が二陣営に分かれての衝突であった。
内裏で敵を迎え撃つ19歳の義平は、敵を散々に打ち破る。
一方、清盛は自陣の六波羅
゚に兵を引き、劣勢と見せかけ陣を整え迎え撃つのが作戦だった。
義平一党は清盛のいる六波羅に攻めかかり、出馬してきた清盛を襲う。
しかしさすがの義平も疲労の色が濃く退却。戦い自体も源氏の敗北となり、
義平は父義朝や弟頼朝
゚らとともに京を脱出し、東国へ逃げ落ちることになる。
特急ひだ1号は、車窓に飛騨川の流れを眺めながら 9時04分に飛騨金山駅
゚に到着する。
笹りんどうの着物を着た女性は、嵯峨みどりと名乗った。
二人は静かな駅前を歩き、浅葱色
゚の鉄橋を渡った。
上流を見ると右手に飛騨川の本流、左から支流の馬瀬川
゚が合流していた。
金山の町は旧飛騨街道
゚の宿場町として栄えた。
武儀郡
゚・加茂郡
゚・郡上郡
゚・益田郡
゚の境界に位置し、古くから交通の要衝であった。
住民は表通りを避け、建ち並ぶ民家の隙間を通った。複雑に絡み合う裏道が人体の筋骨のようだと「筋骨めぐり
゚」として、昭和レトロや食べ歩きができる人気の観光ルートになっている。
三:悲報と復讐、源義平
「では、レンタカーで参りましょう。」
トヨタのコンパクトハイブリッドカー・アクア
゚で
馬瀬川沿いの県道86号線
゚を郡上方向へと進む。
約10キロメートル程進むと、祖師野歩道橋が見えてくる。右側に祖師野八幡宮
゚の杜がこんもりと茂っている。
社叢を抜け、鳥居をくぐると、杉の巨木に囲まれて、静寂の中に溶け込むように佇んで、拝殿と幣殿の奥に三間社流造
゚で
檜皮葺き
゚の本殿が鎮座している。
ここは、源義平ゆかりの神社である。
平治の乱で破れた源義朝一行は、美濃国青墓
゚で落ち武者狩りの賊と奮戦するも、
再起を期するため、義朝の命により義平は一行から別かれ、
本巣
゚から牟義都
゚を抜けて、飛騨国
゚に向かう。
当時飛騨国は、律令制
゚の支配が及ばない独立性の高い地域だった。
嵯峨さんは、
「義平はこの地に来ています。平治の乱の後、初めて飛騨に入っています。」と語る。
野間大坊 源義朝の墓
一方、義朝は杭瀬川
゚を舟で下り伊勢湾から、
尾張国野間
゚に渡る。
しかし、一行の縁者の恩賞目当ての裏切りによって、義朝は入浴中に襲撃され非業の死を遂げる。
享年38歳。平治2年1月3日のことだった。義朝の首は正月9日獄門にかけられた。
義平は土豪の金森氏
゚に逗留を乞い、
門原の田口氏の仏堂
゚に附宿する。
そこで田口氏から父義朝の非業の死を知る。
義平は、平清盛
゚が命じた暗殺であると信じ、仇討ちを決意する。
しかし、都では平家
゚の勢いが優勢であり、飛騨で兵を募っても集まらない状況だった。
準備が整わないまま単身京に戻ることを決意する義平に、
田口家で下働き娘の小枝が道案内を願い出て、同行することになった。
義朝が謀殺されてから10日後の1月13日のことだった。
四:義平の最期
源義平は、清盛の本拠である六波羅に近い八坂神社
゚あたりで、
清盛暗殺の機会をう窺っていた。
そこにかつて義朝の家人であった志内景澄
゚が現れる。
景澄は諜報のために六波羅に潜入しており、1月18日夜に義平と景澄が宿で話をしていた。
「景澄、巧妙に六波羅に潜入しているお前は立派だ。」
「ありがとうございます。清盛が六波羅から出たところを狙うのが良いと思います。」
景澄を知る清盛配下の者が不審に思い、清盛一党が動いた。
小枝が湯に浸かっていると湯屋の隙間から揚羽蝶(あげはちょう)
゚の旗の揺れるのを見た。
揚羽蝶は、平家の家紋だ。
危険を察知した小枝は機転をきかせそのままの姿で即刻義平に知らせる。
「義平様。清盛の襲撃です。」
義平は屋根伝いに逃げて、その場は難を逃れることができた。
だが清盛一党は、「殿が石山寺
゚に25日に参詣する」と、偽情報を流すと、
厳重な警戒がしかれた25日、義平が近江の石山寺に潜伏していたところを発見され、捕えられてしまう。
六波羅へ連行された義平は、清盛の尋問を受け、潔く義平本人と認めることになる。
義平は,「まったく、運が悪けぇ…こんなとこで捕まってしまうとは。
生きてて何になるんだ、俺みたいな敵は。さっさと首を斬ってくれよ。」
「ほう、なかなか開き直るな。さすが源氏の長男だ。」
「当たり前だろ。俺は源義朝の長男、源義平だ。」
その日のうちに六条河原
゚に引き立てられる。
太刀取りは難波経房
゚だった。
「貴様、俺ほどの者を斬る男か、名誉なことだぞ。上手く斬れ。
下手くそだったら、喰らいついてやる」と言い放った。
「首を斬られた者がどうして喰らいつけるのか」と経房が尋ねると、
「すぐに喰らいつくのではない。雷になって蹴り殺してやる。さあ、斬れ!」
「ふっ、生意気な。しかし、さすがは源氏。覚悟は立派だな。一太刀で済ませるつもりだ。覚悟しておけ。」
「覚悟はできている。さっさと斬れ!」
永暦元年1月25日(1160年3月4日)、義平は20歳という若さで処刑される。
一部始終を見届けた小枝は、義平の太刀を隠し持ち飛騨へ帰っていく。
この時代、後白河法皇と清盛は対立関係にあり、政治権力は徐々に清盛へと移行していく様相を呈していた。
義平の太刀は見つかるのを恐れ、田口家の裏に隠される。
五:祖師野八幡宮と狒々退治
それから8年後、経房は平清盛の供をした際に摂津の国
゚で雷に打たれて死んだと伝えられている。
治承5年(1181年)平清盛は病に倒れ、64歳でこの世を去った。
平家は治承5年(1183年)に都落ちし、一ノ谷の戦い
゚、
屋島の戦い
゚を経て、
寿永4年/元暦元年(1185年)壇ノ浦の戦い
゚で滅亡する。
清盛の死が飛騨に伝わると、同年、飛騨では門原村住人の田口光員によって
相州鎌倉鶴岡八幡宮
゚から勧請して、
祖師野八幡宮
゚が創建されたのだった。
祖師野八幡宮
祖師野八幡宮に伝わる狒々退治の伝説と義平の刀剣について、嵯峨さんの説明を聞く。
中国には古くから狒狒
゚の伝承の伝承があり、
平安時代頃には日本でも「狒々(ひひ)
゚」と呼ばれる妖怪が登場する。
狒々は、山奥に住む猿のような怪物で、非常に凶暴で人を襲うと恐れられていた。
伝承によると、平治元年(1159)の平治の乱で敗れた悪源太こと源義平がこの地に逃れ、
源氏再興の機会を窺っていたところ、周辺に悪行を働く狒々が現れ、多くの住民が困り果てていた。
祖師野の村長から退治を依頼された悪源太義平は、人身御供の娘の身代わりに扮し、
岩屋岩蔭に追い詰め、名刀・祖師野丸
゚を用いて見事退治したと伝えられている。
祖師野八幡宮には、義平が狒々退治に使用したとされる刀剣「祖師野丸(伝安綱作
゚)」が所蔵されている。
嵯峨さんによると「義平の太刀は本物」と言う。
しかし、「悪源太義平の狒々退治は、後世の創作です。」と語る。
これは都で横行していた盗賊と、源頼光
゚の
妖怪酒呑童子
゚退治の伝説が混同されたのではないかという。
「義平には、源義朝の死を知ってから京に引き返すまでの間に、十分な時間がありません。
そのため、義平が実際に狒々退治のをしたとは考えにくいです。
しかし、それは単なる作り話ではありません。
人々は、義平の悲劇を語り継ぐために、このような物語を作ったのです。
そして、その物語には、義平の魂が込められていると言えるでしょう。」
義平の太刀は義平の怨念封じのために、祖師野八幡宮に奉納されたと話す。
義平の悲劇は、歴史的事実に基づいている。
しかし、狒々退治の伝承は、後世の人々によって創作されたものである。
六:岩屋岩蔭遺跡
゚
祖師野八幡宮を後にして、私たちは岩屋岩蔭遺跡
゚に向かった。
郡上八幡に向かう道から、案内看板に従って金山巨石群5km方面に右折して、東仙峡/馬瀬方面へと進む。
途中、馬瀬川第二ダム
゚や、
八坂湖畔桜を通り、高規格道路の国道256号
゚を上に見ながら道なりに進むと、
左カーブの左側に岩屋岩蔭遺跡、金山巨石群の看板が見えた。
妙見谷に沿って急坂を下ると、右手の斜面に巨石の団塊が現れる。
岩屋神社
金山巨石群
゚の案内板の付近に車を停めて、参道をゆっくりと歩いていく。
岩屋神社の鳥居には、かつて「妙見神社」の額が掲げられていた。神社の南側を流れる渓流は妙見谷と呼ばれている。
岩屋神社の鳥居をくぐると、その先に巨大な岩で組まれた岩屋岩蔭遺跡が迫ってくる。
嵯峨さんが、拳ほどの石で参道左にある岩を打つと、岩が響き渡った。
「岩に空洞があるのですね。見ただけでは分からないのに、なぜですか?」
「見えるんです。小枝の末裔ですから。」とニコッと笑みを浮かべた。
嵯峨さんは、岩屋岩蔭遺跡は、左右に巨石が座ってさらに大きな巨岩が覆い被さるように巨石がのし掛かっている。
石段を上ると岩屋の柵の中に岩屋神社の祠がある。
かつては北極星
゚または
北斗七星
゚を神格化した妙見様が祀られていた。
妙見信仰
゚は中国唐代に発祥し、
飛鳥時代に渡来人とともに日本に伝わってきた。
国家の守護神として信仰され、平安時代に東国まで広まり、江戸時代には天之御中主神
゚と融合している。
明治新政府の神仏分離により、国常立神
゚に改められたが、
京都の新宗教
゚が国常立尊を信奉し、終末論を唱えたことから、宗教弾圧事件
゚が起こり、
世間の情勢を考慮し、岩屋神社でも表向きは天之常立神
゚に改名された。
岩屋岩蔭の北斗七星
嵯峨さんは、右の巨石の外側から眺めて、
「岩の面に甌穴
゚のような小穴があるでしょ。
盃状穴
゚とも言うけれど、
あの穴を繋ぐと北斗七星
゚になるの。
左から、一・二つめが見にくいけど、三、四、この四つが水をすくう合。左上に柄の五・六・七。北斗七星でしょ。
でも、この北斗七星は、空に見える北斗七星のとは逆向きになっているのです。
何故なら、神様は天の外側から星座を見ているので、逆に見えるだろうと、太古の人々は考えたのです。」と説明した。
「何千年前の人の心がわかるという、あなたはいったい?」と思わず口にしてしまった。
七:史跡と真実
岩屋岩蔭遺跡の北側800m地点に、堤高127.5メートルの多目的ロックフィルダム、岩屋ダム
゚が1976年に建設された。
工事に伴い、神社は祖師野八幡宮の飛地境内となり、
祭神は天之常立神
゚として祖師野八幡宮に合祀されている。
岐阜県は岩屋岩蔭遺跡を1973年に、狒々退治の伝承のある史跡に指定した。
2001年には、当時の金山町が岐阜県の指導の下、調査会社によって岩屋内部の発掘調査を実施した。
調査結果は『岩屋岩蔭遺跡発掘調査報告書』
゚にまとめられており、
縄文時代から弥生時代の土器片、石鏃
゚など多くの石器、江戸時代の古銭が発掘された。
「岩屋岩蔭遺跡は、
古代の人々が神と考える太陽や月・星・天の川を観測する天文学や暦学を研究していた場所です。
この遺跡は、私たちに、古代の人々の知恵と技術を伝えてくれます。
そして、私たちに、自然と共生することの大切さを教えてくれます。」
岩屋岩蔭遺跡は、悪源太義平の狒々退治の伝承で岐阜県の史跡に指定されている。
しかし、発掘調査では中世の遺物は発見されず、謎が深まるばかりだ。
報告書には、濃飛流紋岩
゚の巨石は上から転がって現在の位置に落ち着いたと推定されている。しかしその真偽は定かではない。
遺跡が暦と関係するのではと、在野の研究者である小橋清氏は、岩屋岩蔭遺跡と周辺の巨石群で、
太陽の日周運動と年周運動
゚を、太陽光の観測を長年続けた。
その観測データから、小橋さんは金山巨石群は古代の天文台とする説を唱えている。
岩屋岩蔭遺跡は報告書にあるような、移動生活をする縄文人のキャンプ場ではありません。
そのことを知った外国の研究者は次々と岩屋岩蔭遺跡を訪れ、世界中に学術研究として紹介している。
金山町/往復屋
踏査を終えた二人は、飛騨金山の町に戻ってきた。国道41号線沿いの「往復屋」
゚で芸術家の店主の打つ美味しい手打ち蕎麦を味わう。
岩屋岩蔭遺跡の場合、行政は遺跡と天文との関わりについて学術的には触れず、岩屋岩蔭遺跡を観光資源として活用している印象だった。
日本の行政は、歴史的資源を活用した観光まちづくりに力を入れている。一方、歴史的資源の学術的研究に対してバランスを取っているとしなだらも、視点は異なっているようだ。
嵯峨さんは笹竜胆を見つめながら、歴史の真実と虚構について語った。
「歴史は常に真実を語るわけではありません。しかし、私たちは真実と虚構の狭間で織りなす物語の、そこから何を学ぶべきなのかを考える必要があるのです。」
補足
小説の内容は、史実や資料に基づいていますが、一部創作が含まれています。
また、登場人物名などは変更されています。
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