縄文時代の日本人は岩屋岩蔭で神を見ていた

 金山巨石群 築造の目的を推理する
2012年4月11日
星たび 樋口元康

冬景色の岩屋岩蔭遺跡
Photo1:冬景色の岩屋岩蔭遺跡。
2006年2月21日撮影 (c)M.Higuchi

概要:

 岐阜県下呂市金山町岩瀬にある「岩屋岩蔭遺跡」を構成する巨石は、 山からの崩落により今の位置にあるものと考えられていた1。 ところが地名に秘められた意味を調べると、岩屋は人の力で作られている。 さらに縄文時代の自然環境から岩屋岩蔭築造の目的は、災害犠牲者に対する鎮魂と神に対する感謝であった。

解説:

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岩屋岩蔭遺跡とは

岩屋岩蔭遺跡巨石群
Photo2:岩屋岩蔭遺跡巨石群の正面南側。
2012年3月3日撮影 (c)M.Higuchi

 岩屋岩蔭遺跡とは  岐阜県下呂市金山町岩瀬にある巨石で構成される岩屋である。 岩屋は、左右2石の上に覆い被さるように巨石がよりかかり天井岩となっている。天井岩の下が岩窟状に岩蔭となり、岩蔭にはテラスがあり、岩屋妙見神社本殿が鎮座している。
 昭和48年(1973年)に、岐阜県が「岩屋岩蔭遺跡」の名称で史跡として指定をしている。 史跡指定の理由は、平安時代末期に、悪源太義平(源義平)が、 狒狒(ヒヒ)を追いつめてこの岩蔭で退治したという 口頭伝承2によるものである。
平成13年(2001年)に岐阜県教育委員会は当時の金山町教育委員会の名のもとで発掘調査を行ない、岩蔭から縄文時代早期、弥生時代の遺物(土器・石器)が出土した。 一方でヒヒ退治伝説のある中世の形跡は見つけられなかった。

《周辺の遺跡》  岩屋ダムの建設に伴う埋蔵文化財発掘調査を昭和45(1970)年度〜49年度で、 細越遺跡・卯野原遺跡・卯野原新田遺跡・乙原遺跡・八坂遺跡と、周辺で5つの遺跡が確認されている。 細越遺跡では縄文早期の押型文土器が出土し、卯野原・乙原遺跡では複合住居址が明らかにされた。 また、6km程下流側の祖師野遺跡では縄文中期から後期にかけての土器とともに、石製土掘り具が出土している。
《遺物の出土》 Wikipediaには、「発掘調査によって縄文時代早期から江戸時代の遺物が出土している。」とある。 時代を連続しておらず、弥生時代の遺物以降は、賽銭の寛永通宝および一銭硬貨(大正,昭和)まで、この間の遺物の出土はない。

岩屋の築造時期と巨石崩落のなぞ

岩屋岩蔭遺跡巨石群の東側側面
Photo3:岩屋岩蔭遺跡巨石群の東側側面。
2012年3月3日撮影 (c)M.Higuchi

 平成14年(2002年)作成の岩屋岩蔭遺跡の発掘調査における報告書によると、岩陰内の2ヶ所で溝(1トレンチは地山まで、2トレンチは縄文後期〜晩期の層まで)を掘り下げている。
この調査で約8000年前の縄文時代早期の押型文土器片をはじめ、 縄文時代早期および弥生時代の土器や石器が出土している。
縄文時代早期の遺物が出土したことは、縄文時代早期には、岩屋は既に存在していたと考えるのが自然である。
一方、直に認めがたいのは、巨石が今の位置にあるのは山からの崩落によるもの、という説である。 以下に巨石の状況に関して、報告書には次の記載がある。

「岩屋岩蔭は流紋岩質溶結凝灰岩濃飛流紋岩の巨石の上に、北から濃飛流紋岩の巨石が庇状に覆い重なって形成されている。 これら岩陰を構成する巨石は石の種類も堆積方向も(妙見谷の)谷底付近のものとは異なっており、山からの崩落によるものと考えられる。
 調査時、径5〜8cmほどの木根が東西方向に多く走る様子が観察された。岩陰内にはこうした根を伴う木や株は見られないことから、岩陰外の木の根であると考えられる。 したがって、岩陰を構成する巨石は現地表面からそれほど深くないところに乗っている状態であると考えることができよう。
岩陰には明治以前より妙見神社が祀られており、現在は岩陰内に平坦な面が形成されている。しかし、もとは斜面地でありこのテラスは造成によるものである。
妙見谷を南西から北東を望む
Photo4:妙見谷を南西から北東を望む。
2012年3月3日撮影 (c)M.Higuchi
崩落説の理由として、 妙見谷の谷底付近の流紋岩質溶結凝灰岩と岩屋の濃飛流紋岩という 岩の種類の違いを崩落の根拠としている。 写真のように妙見谷は馬瀬川に流れ込む谷地形で、 遺跡は、平均23度の南向き斜面の、標高約380m、谷からの比高差約15mに位置している。 斜面中の緩いながら尾根筋にある場所に崩落したとすれば、どこから崩落したのか難解である。 自然崩落以外の、人力による設置の可能性も検討されるべきではないか。

地名の岩屋村字高平とは

岩屋岩蔭の所在地は、岐阜県下呂市金山町岩瀬字高平3591-1である。
飛騨の下呂市にあるが市町村合併の前、 2004年(平成16年)までは岐阜県益田郡 金山町であり、 1955年(昭和30年)までは岐阜県郡上郡 東村であり、明治30年まで郡上郡岩瀬村であり、 明治7年までは美濃国郡上郡岩屋村と称していた。
従って「金山巨石群」は金山町時代に付けられた名で、以前は「岩屋の巨石群」であり、岩屋村の「岩屋」は岩屋神社として残されている。

岩屋岩蔭の岩屋神社本殿
Photo5:岩屋岩蔭のテラスに岩屋神社本殿がある。
2012年10月14日撮影 (c)M.Higuchi

 「岩屋村字高平」。この地名に秘められた意味とは何か。
漢字学の白川静先生の著書 「常用字解3を参考に地名を読むと、縄文時代の人の意識が地名に残されているのがわかってくる。
字「高平」の「平」は、木の棒の先に石を縛り固定して斧や鍬として平らな地面を造った。 「高」は、京の省略形と口(sai)とを合わせた形である。 ここに巨石で石門を造り背後の山を塚とした。石門にアーチ形の望楼に見立てた巨石を被せ、口(sai)に祝詞を供え結界として悪霊が入らぬようにした。
これが「高平」である。高平は造成しているのだ。
「岩屋」の「岩」のもとの字形の 嵒は山上に岩石が重なっている形。 「屋」は葬儀を前にしばらくの間遺体を棺に納めて安置する殯(もがり)の建物のこと。
「岩蔭」の「蔭」は、「廾」草が生い茂ってひかげを作っていることを蔭といい、「今云」(in)気を覆い閉じ込めたところに、神が天にのぼり降りするときに使う神のはしご「阜」(fu)が現れる。その場所は岩で囲まれている。
葬儀は、大きな石で囲った「岩蔭」を祭壇として、口(sai)とよぶ器を並べて神に祈る言葉「祝詞」を収めた。 天の開いたところから、神の火すなわち太陽の光が差し込み、香りのついた酒を汲んでふりそそぎ清め祓う儀礼をした。これが祭りの原型である。 神社と地名に残された「高平」と「岩屋」とは、神を迎え入れた聖地であることがわかった。

狩猟のキャンプ地ではなかった

発掘調査で縄文時代の土器片と石鏃が多数出土していることについて、報告書には次のコメントがある。

縄文後期〜晩期の利用
この時期には石製土掘り具などが増加し、食物として植物の利用度が高まる。金山町内の祖師野遺跡でも同様の傾向が認められた。 しかし、岩屋岩蔭ではそうした植物採取、狩猟の道具は一切見られず、石鏃が多かった。 こうしたことからこの時期においても狩猟のキャンプ地として岩屋岩蔭が利用されていたと考えられる。
報告書では岩屋岩蔭を、狩猟のキャンプ地として利用したとしている。
出土したのは矢の先の石鏃であり壊れた土器片だ。狩猟の道具が見つからずに狩猟のキャンプ地とするのはどうだろうか。 キャンプをするなら火を使うが、火を焚いた炉跡は見つかっていない。
神を迎え入れる神聖な場所に、あるいは葬儀を行う聖地に、通常の生活を持ち込まないのが当時の考え方だ。 岩蔭では儀式を行っている。矢を放ち、願いを込めて土器を投げ割る。それが神に対する儀式だ。キャンプ地などありえない。

金山巨石群とは

妙見谷の南向き斜面
Photo6:妙見谷の南向き斜面に岩屋岩蔭遺跡巨石群がある。
2012年3月3日撮影 (c)M.Higuchi

 金山巨石群は、 「線刻石のある巨石群」、「岩屋岩蔭遺跡巨石群」、「東の山巨石群」の3か所の巨石群の総称である。
最初の発見は、のちに線刻石のある巨石群と名の付く巨石に刻まれた2本の線に、小林由來氏が直感した1997年(平成9年)のことである。 巨石の隙間に射し込む日の光が、季節を知る古代の天文台ではないのか、ということから調査を進めると、 付近に合わせて3か所の巨石群が発見された。
当時は益田郡金山町であったことにより「金山巨石群」と名付けられ、 金山巨石群周辺調査委員会の調査により、いずれも太陽運行を観測して、1年の節目の日を知ることができることが確認され、 世界各所の巨石記念物と同様に太陽暦カレンダーを知る仕組みになっていることが判明している。
調査による主な成果は、1998年の「巨石が人工的に配列された」。2004年の「古代の太陽の観測場所だった」に続き、 2010年には「うるう年も正確に知ることができた」が発表されている。
閏年の観測は、岩屋岩蔭遺跡巨石群の岩蔭のテラスにある測定石に当たるスポット光の観測によるものであり、 この場所は岐阜県指定史跡の岩屋岩蔭遺跡と同一である。

閏年を知る岩蔭の測定石

 金山巨石群調査資料室が2010年3月に発表した「うるう年も正確に知ることができた」とは次の内容であった。
金山巨石群の「岩屋岩蔭遺跡」空洞内に差し込む光は1年に2度「測定石」の同じ位置に当たって同じ形を作ることから、 1年365日の周期、4年に1回のうるう年が観測できる暦の役割を果たしていることが分かっている。 約10年の調査で、うるう年を指し示す太陽光の位置が少しずつずれていることが判明。 分析の結果、巨石群は、グレゴリオ暦に近い精度で1年の周期を観測できることがわかったというものだ。

岩屋岩蔭にある閏年を知る測定石にあたるスポット光
Photo7:岩屋岩蔭にある閏年を知る測定石にあたるスポット光。
2010年10月14日撮影 (c)M.Higuchi

 金山巨石群の「岩屋岩蔭遺跡」空洞内に差し込む光は1年に2度「測定石」の同じ位置に当たって同じ形を作ることから、 1年365日の周期、4年に1回のうるう年が観測できる暦の役割を果たしていることが分かっている。
2009年までの調査で、うるう年を指し示す太陽光の位置が少しずつずれていることが判明。 分析の結果、巨石群は、グレゴリオ暦に近い精度で1年の周期を観測できることがわかった。 地球の公転周期(1年)は365日と約4分の1日であるため、ずれを修正するために4年に1回のうるう年がある。 しかし、正確な1年の長さ(1太陽年)は365日と5時間50分であることから、 それでも誤差が生まれるため、現在の太陽暦(グレゴリオ暦)では、400年間で87回のうるう年を設定する。 すなわち400年間に3回、うるう年を平年として修正しており、最も正確な太陽暦とされている。
調査資料室は測定石に当たる光の位置を約9年間観測した結果、 石を照らす光は毎年ほぼ同じ位置に戻ってくるが、光が当たる位置は毎年4分の1日分(約1cm)ずつずれる。 そのため4年に1回、当たり始める日と当たらなくなる日が1日だけずれるという。
さらにデータを精査したところ、光が当たる4年毎の位置はさらにすこしづつずれることがわかった。 その結果、4年×33回の132年目をうるう年ではなく平年とする、すなわち、うるう年を132年に1回省けば 現在の太陽暦の修正より高精度の修正ができる、という結論を導き出した。
古代の日本に暦を知る仕組みとして設置されたものであろう。これほど正確に知ることができるとは。 岩蔭のまだ発掘調査していない土の中に日にちを数えた証拠があるのでは。というものだった。

縄文時代の環境変動

岩屋岩蔭にある測定石に雨水の日と霜降の日にあたるスポット光
Photo8:岩屋岩蔭にある測定石に雨水の日と霜降の日にあたるスポット光。
2012年2月19日撮影 (c)M.Higuchi

岩屋岩蔭が築造されたであろう 縄文時代の 草創期(約1万3000年前〜約1万年前)か、早期(約1万年前〜約6000年前)、それはどんな時代であったのか。
最終氷期終了の後に起きた 完新世の気候最温暖期という、 世界的な温暖化の時期にあたっている。原因はおそらく地球軌道の変化 (ミランコビッチサイクル) による日射量の変化で説明がつくだろう。 ただ温暖化は緩やかではなく急激に、時には ヤンガードリアスイベントのようないわゆる寒の戻りとして一時的気候寒冷期を挟みながら気温上昇が起こっている。
日本でも縄文時代草創期から早期には気候変動による植生や動物相、海岸線の移動などの環境の変化が激しかった。
縄文海進は、約19000年前に−100m以下まで低下した海水面が約6000年前には+数mまで上昇している。 姶良カルデラのサツマ火山灰や 鬼界アカホヤ火山灰の降灰は西日本の広範囲におよぶものだった。 これらの天災による犠牲者や環境難民で居住地の移動を余儀なくされた。
温暖化の時代は災害頻発の時代であった。

巨石は動かされた

岩屋岩蔭に射し込むスポット光
Photo9:岩屋岩蔭に射し込むスポット光。
2010年3月22日撮影 (c)M.Higuchi

天気が回復したときなどに、太陽光が雲の切れ間から細長く伸びる一筋の光が見えることがある。 薄明光線という。 空気中の水滴など微粒子に光が当たって乱反射するため、光の当たっているところが明るい筋に見える。 神秘的な光景になり、地上へと向かって光が伸びているものは、 レンブラント光線天使の階段などと呼ぶ。

最初は自然にできる石と石の隙間から太陽光が射しこみスポット光となることを知り、別の場所でシミュレーションをしている。 そうして計画的に作りあげたのが「線刻石のある巨石群」である。 「線刻石のある巨石群」では夏至の日のスポット光を完成した。
さらに1年を3分の1ごとに区切る日を観測するために、「岩屋岩蔭遺跡巨石群」を計画した。 巨石群の位置決定に際し、設計を行っている。
方位を測定し南北の方位をフィールドにJ石と立石、E石の頂側面に一致させて巨石を配置している。 こうして「高平」を整地して、「岩屋」を作り上げている。
天井石(F石)の設置には、隙間を作りながら、春分秋分の日没方向に合わせ、雨水霜降の日の太陽角度を考えて設置している。 しかも、巨石は動かされている。
人間の力によって動かされ、さらに測定部を削り出している。
閏年が観測できるほど精緻な造作は自然の崩落などでは不可能である。

岩屋で神の火を観測し神の怒りを鎮めようとした

金山巨石群のライブイベントで火の祭り
Photo10:金山巨石群のライブイベントで火の祭り。
2012年3月20日撮影 (c)M.Higuchi

では、縄文時代の日本人は、一体何を目的としてこれほど難儀な工事を行い巨石で岩屋を組み上げて太陽を観測する必要があったのか。
そこには経済的な考え方、つまり「季節を知ることで作物を植える時期を知り収穫を得る」だけではない。

縄文時代の平均寿命は10代前半だという。1 温暖化による災害、天災で次々に同胞が生命を絶たれていく時代にあって、人々は大自然の脅威に怯えたが、彼らは決して絶望をしなかった。

彼らはこう考えた。「太陽が氷河の氷を溶かして世界中を暖かくしてもらったが、太陽は疲れて力が弱くなって次々に天災が起っている。 神は怒っている。神に感謝することで神の怒りを鎮めよう。 岩屋を築き岩蔭の石で太陽を観測して、神の意志を読みとろう。」と。
自らの世代でできなければ子供たちに託した。子供たちはその子供たちに託した。 厳しい冬も必ず春が来て季節が移り秋になって僅かな恵みも神に感謝をし、何年かかっても、何十年かかっても、何百年かかっても感謝をし続けた。
縄文時代の日本人は岩屋岩蔭遺跡で神を見ていたのではないか。
岩蔭に入り巨石の隙間から射し込む日の光に手のひらを差し出すと、優しい暖かさを感じる。

今後の希望:

平成13年(2001年)の発掘調査は、報告書によれば遺跡の一部分の発掘であり、発掘の目的は埋蔵物によって遺跡の性格を把握するためと読み取れる。 当時の考え方には地面の下は調査対象とするが、地上に見えている遺跡を構成する石組みの調査は簡易な報告のみだ。 地元から古代の天文台としての願いもほとんど聞き届けられていなかった。 古代の天文台として金山巨石群を発見した小林由來氏はじめ金山巨石群調査資料室関係者の反骨心に火が付いた。 我が国ではほとんど認められなかったために国際的学会に打って出た。 やがて地元金山町、下呂市の住民の方々、それに遠路お訪ね戴いた皆様によって広く知られ、マスコミにも取り上げられるようになった。
岩屋岩蔭遺跡の発掘調査はまだ終わっていない。 岩屋岩蔭および関連する周辺の巨石群について、測域センサ(3Dレーザースキャナー)測量を行って、GPSによる絶対座標(緯度、経度、標高)を取得する必要がある。
10年余以前の当時は岩屋岩蔭遺跡はほとんど知られていない巨石遺跡であった。 今、1日に何百人も見学者が訪れる観光地になりつつあり、世界遺産の声も聞かれる中で、遺跡保護のことも考える時期に来ているのではないだろうか。 そのためにさらなる調査研究を続けていただきたい。
金山巨石群の一ファンとして記す。

参考資料:

1: 「岩屋岩蔭遺跡発掘調査報告書」2002年3月 金山町教育委員会
2: 「金山町誌」昭和50年11月 金山町
3: 「常用字解」2003年12月 白川静著 平凡社

リンク:

岩屋岩蔭遺跡巨石群にあたる朝の光
Photo11:岩屋岩蔭遺跡巨石群にあたる朝の光。
2011年10月26日撮影 (c)M.Higuchi

Memo:

このページは、金山巨石群でのボランティア説明のときの、説明と質問に対する回答の一部を再構成したものです。